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#独占欲
「あっ、矢嶋さん!お疲れ様です。川口さんは今作業中で手が離せないようで……。伝言なら私がお聞きしますけど」
佐竹の艶のある声が耳に入った。
彼女に対して矢嶋が何か答えたようだったが、はっきりとは聞こえなかった。私が座るすぐ近くでちょうど電話が鳴ったためだ。しかし、どうせたいした内容ではないだろうと思いながら、手元に置いたマイボトルに手を伸ばした時、背後で矢嶋の声がした。
「川口さん、お疲れ様」
「えっ!」
私は驚き、弾かれたように振り返った。
彼は私の頭の上からテーブルの上に視線を落とす。
「それ、今日中に全部やるの?」
「そ、そうです。そのように言われたので……」
佐竹が矢嶋の後を追って来た。その表情に焦りが見える。
「あ、あの、矢嶋さん」
しかし彼は佐竹を無視する。
「ずいぶんと残ってるな。これ、ほんとに今日中か?一人でやるには厳しい量だろう。手伝うよ」
「だ、大丈夫です。アナウンサーの方にそんなこと、させられません!」
私は勢いよく首を横に振った。
佐竹が矢嶋の腕にそっと手を伸ばす。
「そうですよ。矢嶋さんはどうぞご自分のお仕事をしてください」
矢嶋は彼女の手が届く前に、それをやんわりとかわした。
「私の今日の仕事は、さっきの番組で終わったので大丈夫ですよ。それにこの量、一人よりも二人でやった方が絶対に早い」
佐竹はひどく動揺した顔つきで、宙ぶらりんになった手をもう一方の手で隠した。
「で、でも、それは川口さんにお願いした仕事ですから」
「佐竹さん」
矢嶋は佐竹を見下ろした。
「これを一人でやるのは、ものすごく大変だと思いませんか?だから、手の空いている俺が手伝います。川口さん、これはどうすればいいんだ?」
矢嶋は私の隣の椅子に腰を下ろし、早速箱の中に手を伸ばした。
佐竹が狼狽しているのは明らかだ。
「あ、あら、いやだ、私、勘違いしていたみたい。ごめんなさい。これ、来週の中頃までで良かったんだわ。だから、今日はこんなに頑張ってもらったし、もう切り上げてもらって、続きは週明けで大丈夫だから」
「えっ……」
私は困惑した。
「でも、佐竹さん、言いましたよね。これは、明日使いたいんだ、って……」
「だ、だから、それは、日程を勘違いしていたみたい。急がせてしまって本当にごめんなさい。そういうわけで、矢嶋さんもお手伝いいただかなくて大丈夫ですから」
普段の彼女らしくなく、佐竹の口調はところどころ乱れていた。
佐竹の言葉を疑うことよりも、この作業の完了が今日中ではなかったことに安堵した。ちらりと腕時計を見れば、すでに終業時間がだいぶ過ぎている。
矢嶋が席を立ちながら佐竹に言う。
「勘違いは誰にでもあることですからね。しかし、佐竹さんがスケジュールを勘違いするなんて珍しいですね」
「そ、そうでしたか?今日はバタバタして、忙しかったせいかもしれません」
「それはお疲れ様でした」
矢嶋は彼女に労いの笑顔を向けてから、ふと思い出したように続ける。
「そうだ。あえてお願いしなくても、佐竹さんなら誰にでも優しいとは思うんですけど、川口さんは俺の大事な後輩なので、これからもよろしく頼みますね」
わざわざそんなことを言わなくてもいいのにと、私は苦々しく思いながら矢嶋の横顔に目をやった。その向こう側に見えた佐竹の笑顔は引きつっていた。
「も、もちろん。川口さんのおかげで、いつも助かっているんです。あの、川口さん、申し訳なかったわ」
「い、いえ、全然」
感情を抑えているのか、佐竹の眉がぴくぴくと動いていた。
「それなら、川口さんの仕事はもう終わりということになりますか?」
「ま、まぁ、そうですね。特に他に残っていないのなら……」
「それじゃあ、この後、彼女にお願いしたいことがあるので、お借りしたいんですが大丈夫ですよね?それが終わったら、あとは帰宅してもらっても?」
矢嶋に問われ、佐竹は強張った表情で頷いた。
「はい、特に問題はありません」
「それなら、局長にも声をかけていきますね。川口さん、これ、片づけましょうか」
「一人でやります」
「でも、二人でやった方が早いでしょう?」
矢嶋はにっこりと笑いかけられて、どきりとした。顔まで熱くなる。これは絶対に暖房が強すぎるせいだと理由付けし、私は平静を装いながら、手早くテーブルの上を片づけた。
「この続きは、週明けで良かったんですよね?」
念のためにと確認する私に、佐竹はどこか固い表情のまま微笑む。
「えぇ、また来週、お願いします。お疲れ様でした。矢嶋さん、私もこれで失礼します」
佐竹は目を伏せるようにしながら、私たちに背を向けて自分の席へと戻って行った。
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