テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
十階層を抜け、十一階層へと続く石の階段を、四人はきしむ膝をだましながら登っていた。
足を上げるたびに腰が引っかかり、息が一拍遅れてついてくる。
先頭を行くダリウスの背後で、
パンッ、と乾いた音が洞窟に響く。
「……あぁ、そうだ。忘れていました!」
手を打ったのはエドガーだ。
ダリウスは振り返り、眉をひそめる。
「どうしたんだ、いきなり」
エドガーは妙に胸を張っていた。階段の段差を踏む足取りまで軽い。
「昨日のミラの“奇跡”を見て思ったんです。そろそろ、通り名が必要だと」
その言葉を聞いた瞬間、
「……」
ミラの顔から血の気が引いた。唇が開いたまま固まり、肩がすくむ。
エドガーは気づかないまま、さらに調子に乗る。
「奇跡を起こすということで、“天界の——”」
「いやぁあああああああ!!」
ミラは耳を両手で塞ぎ、階段の途中でしゃがみ込んだ。
首をぶんぶん振り、下を向いて拒否する。髪が頬に貼りついても構わない。
オットーはぽかんと目を丸くし、その顔を覗き込んだ。
「どうしたミラ、今いいところだったぞ?」
「本当にやめて!!」
ミラはガタガタと震えながら叫ぶ。指先が耳を押さえたまま白い。
「私まだ十六歳よ!? 汚れたくないわ!!」
エドガーはきょとんとしたまま首を傾げる。
「ミラ? 私たちの頃はですね、通り名といえば“一流の証”で——」
「それ、おじさん臭いって言ってるよね!」
切っ先みたいな一言だった。
「……おじさん……」
エドガーの顔から血の気が引く。頬が落ち、口が半開きのまま止まる。
「……そうか……」
なぜか隣のオットーまで遠い目をした。階段の縁を見つめ、呼吸が一度長くなる。
ダリウスは苦笑し、二人の間に割って入った。
「まぁまぁ。今の子には今の子の流行ってやつがあるんだよ、きっと」
ミラは警戒するようにエドガーを睨みつつ、そろそろと耳から手を離す。
片耳だけ外し、もう片方は残したままだ。
「ほんとよ? 変なのつけたら一生根に持つんだから」
「……善処します……」
エドガーは肩を落とし、階段を一段踏み外しそうになって慌てて体勢を立て直した。手が壁を探り、指が岩に当たって止まる。
そんな他愛もないやり取りを交わしながら、四人は十一階層へ向かっていった。
段差を一つ上がるたびに、足音が軽くなる者と重くなる者が分かれていく。
*
階段を登り切った瞬間、視界が切り替わった。
冷たい岩肌が消える。湿った空気も薄れる。水滴の音も途切れる。
靴底が当たる床の感触だけが変わった。硬い。音が吸われる。
真っ白な空間だった。
床も天井も壁も白い。光源が見当たらない。
それでも影は薄く落ち、足元の輪郭だけは分かる。近づけば壁と床の境目が溶けていく。
「……白いね」
ミラがぽつりと呟く。首をきょろきょろ動かし、指を伸ばす。
指先が空を掻いたまま戻る。
「どこからが壁か、よく見ないとわかんない」
踏み込む一歩が慎重になる。足先が床を探る。空間の端を踏み外しそうな感じが、背中の方へ広がる。
ダリウスは一歩前へ出て、周囲を見回した。
右手が自然と剣の柄へ伸び、指が柄の溝を確かめる。
「ここが……儀式の間、ってやつか」
その肩越しに、エドガーが目を細めた。
「……あそこに台座がありますね」
指差した先、白の中にぽつんと灰色の石の台座がひとつ。
他には何もない。影も少ない。台座だけが妙に重い存在感を持っている。
オットーは尻をぼりぼり掻きながら言った。声が軽いのに、歩幅が狭い。
「とりあえず、なんだ……まぁ、行ってみようぜ」
四人は慎重に、しかしためらわず台座へ近づいた。
台座の表面が僅かにくぼみ、手の形を待っている。
そのとき。
『よく来たね。ずっと待ってたよ』
声がした。
耳に入ったのか、頭の奥に落ちたのか判別できない。
距離も方向もない。白い空間そのものが鳴っているみたいだった。
オットーがびくりと肩を揺らし、反射的に盾へ手を伸ばした。指が空を掴む。盾は背中だ。
「どこだ!?」
『どこでもだよ』
声は淡々としていた。温度がない。
『僕はこの塔さ。儀式の間で挑戦者を待っているんだ。ずっとね』
「……ずっと?」
エドガーが眉をひそめる。唇が薄くなる。
『君たちが“獣”だった時からさ』
オットーは一瞬ぽかんとし、次の瞬間、腹を揺らして笑い出した。
「俺たちが獣だった? はっ、はっ, はっ! そんなわけあるかよ!」
ミラは首を傾げながらも、先に聞くべきことを口にした。
「それより儀式は? どうやったら受けられるの?」
声はあっさり答える。
『台座に手を当てればいい。ただし——挑戦者は一人だ。そして挑戦者は、僕が選ぶ』
ダリウスの指先に力が入る。拳が一度だけ閉じて開く。
「……わかった。選んでくれ」
一拍の沈黙。
それから穏やかすぎる口調で名が呼ばれた。
『まずは——オットー君に頼みたい』
「お, 俺か」
オットーは胸を張り、顎を上げる。肩が張って、息が一度だけ深く入った。
「いいぜ。というか、俺の名前知ってんだな」
『入り口で、君たちの記憶は見たからね。さぁ, 手を置いて』
ミラとエドガーが息を呑む。
ダリウスも表情を固くし、奥歯を噛んだ。
それでもオットーは振り返って仲間に片目をつぶると、迷いなく台座へ歩み寄った。
「ちょっくら, 行ってくるぜ」
そして、ドン、と豪快に手のひらを窪みに叩きつける。
光が弾けた。
白い空間の白よりも強い光が走り、目が痛む。
オットーの巨体が包まれ、輪郭が薄くなる。指先が先に消え、肩が遅れて溶けていく。
「オットー!」
ミラの声が届くより早く、光が収束した。
そこには誰もいなかった。
*
オットーが次に目を開いた時、空気が違った。
赤茶色の煉瓦造りの壁。
木製の樽がずらりと並ぶ。濃い酒の匂いが鼻孔へ刺さり、反射で喉が鳴る。
床は石畳。
天井は高くないが、圧迫感は別のところから来ている。逃げ道がない匂いだ。
扉がない。窓もない。階段もない。
樽に囲まれた部屋だけが世界のすべてだと言わんばかりに閉じている。声を出しても、外へ抜ける場所がない。
『ようこそ, 試練の空間へ。まずは——乾杯しよう』
テーブルの上に一本の葡萄酒と一脚のグラスが置かれていた。
赤黒い液体が、光源のないはずの空間で鈍く光っている。
オットーは鼻を鳴らし、にやりと笑った。
「この酒をくれるってか。悪いな, 遠慮なく」
分厚い指で瓶を取り、グラスへ注ぐ。
とく、とく、とろみのある音が石壁で跳ね返る。
香りが立つ。
黒葡萄の濃さ。甘い。重い。樽の焦げた香ばしさも混ざる。鼻の奥が熱くなり、舌が勝手に動いた。
「……へぇ」
オットーは唸り、そのまま口へ運ぶ。
ひと口。
喉が鳴った。肩が落ちる。
舌の上で甘みが広がり、すぐ酸が追いかけてくる。香りが残り、舌の端が刺激で痺れる。
飲み下すと不思議なくらい軽い。だが胃に落ちた瞬間、熱が広がる。
オットーの目が見開かれる。息が止まり、次の瞬間に大きく吸い込む。
「こ, これは……!?」
グラスはいつの間にか空だった。
オットーは舌先で縁をなぞり、残りを探す。指がグラスを強く握りしめる。
オットーは木杯を樽の口に叩きつけるように差し出した。腕が速い。
「もしかして, ここの樽は全日この酒か!? もっとだ, もっとくれ!!!」
声は淡々と告げる。
『そうだよ。飲みたいだけ飲んでいい。その代わり——記憶を, もらうよ』
「……っ!?」
オットーの喉が詰まる。
胃の底が冷え、背中に汗が出る。口の中に甘さが残っているのに、舌の裏が乾く。
「……つまり, これが試練か」
声が低くなる。足元が一歩引けないのに、体が引いた。
『その通り』
声は少しだけ調子を変えた。わずかに弾む。
『二週間, 我慢してもらうよ』
「……は?」
オットーの顔から血の気が引く。唇が乾き、舌が口内に貼りつく。
「二週間, だと……? ふざけているのか……?」
『大丈夫。仲間のいる空間とは時間の流れが違うから, 安心していいよ』
声は滑らかだ。余計に腹が立つ。
『お腹も減らない。体力も落ちない。ただ——ここで, 酒を飲まなければいい』
オットーの肩がわなわな震える。拳が閉じて開く。
口の端が引きつり、笑いにもならない音が漏れる。
「そうじゃ, ねぇ……」
唇が乾く。舌が動かない。
目が樽の列を追い、喉が勝手に鳴る。
「二週間も……酒が飲めないのか……?」
言った瞬間、手が震え出した。
指先から始まった震えが手首へ、腕へ、肩へ広がっていく。歯が一度だけ鳴る。
オットーは見えない天井を睨みつける。首の筋が浮く。
「おい」
声が上ずる。
「おい! 他の試練はないのか!? 腕の一本でも, 足の一本でもくれてやる! もっと殴り合いでもなんでもいい! なぁ, 聞いてんのか! おい! おい!!」
煉瓦の壁は沈黙で返す。
樽は黙ったまま香りだけを放ち続ける。葡萄の匂いが濃くなるほど、口の中が乾いていく。
塔はもう何も答えなかった。
#ハッピーエンド
26
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!