−ここは…どこ?
白い霧が激しく立ち込める、広い草むらのようなところで、気がつけば私はうつ伏せに倒れていた。
痺れるように全身が痛い。はるか昔、まだママとお兄ちゃんと仲良く暮らしていた頃に嗅いだ、懐かしい夏の夜の匂い。
上手く動かない身体を無理矢理起こし、顔をあげると、遠くにぽつり、ぽつりと人影がみえる。
その中に、灰色っぽい着物を着た、男性が一人…。
-あれ…あの後ろ姿…
どこかで見たことのある人影に、恐る恐る近づいていく。すると、あと二、三十メートルほどのところで、男性が振り返った。
-…!
その男性の顔を見た途端、今までの記憶が一気に蘇る。うっすらと開かれた唇、切なげに笑う、どこか儚さを残した目元…。もう何年も見ていなかった、あの表情。しかも最後に見たときとは違う、穏やかで、本当に幸せそうな顔…。
-お兄ちゃん!お兄ちゃん!
気がつけば私は、声の限りに叫びながら、その人影を、痛む身体を引きずって追いかけていた。
しかしもうそれ以上、どんなに叫んでも、どんなに走っても、人影には追いつかない。それどころか、追いかければ追いかけるほど、ますます速く、小さくなるように遠ざかってゆき、ついには天と地の境に、溶けるように霞んで見えなくなってしまった。
ピッ、ピッ、ピピー…ピッ、ピピー…
-…ん?ここは…どこ?
「あれ、お兄ちゃんは?!」
「あ、気がついたようですね、小湊さん。」
さっきまで見えていたはずの兄の姿と引き換えに、見慣れない金髪の青年が私の顔をのぞきこんだ。
薄暗い中で天井に一本だけ光る蛍光灯が、やけに眩しい。
一定のリズムを刻む、機械の音で私は目を覚ましたようだ。
-ここは…どこだろう。
まだ何が何なのか、わけがわからない。
「心配しましたよ。だいぶうなされていましたからね。」
明るくはきはきとした口調で、青年が続ける。
「あの…あなたは…?」
「僕はただ、あなたを助けた方に頼まれて、付き添いで来た者です」
「そうですか…」
-痛っ…!
左肩を貫くような激痛が走り、慌てて腕をかばおうとすると、
「きゃぁぁぁあっ!」
あると思っていた左腕が、なかった。
「ど、どういうこと?! な、何が起きてるの?!」
「小湊さん、大丈夫です。もうあなたは安全な場所にいますよ。今はまだお辛いでしょうから、とにかく落ち着いてください。じきに記憶が戻り次第、お話いたします。」
たしなめるような青年の声に、私は徐々に落ち着きを取り戻した。
左肩の痛みは、今もなお波打つように続いている。しかし、痛みはやがて、一定のリズムで繰り返す鈍い痺れに変わり、私はまた眠りにおちてしまった。
どのくらい眠っていたのだろう。
眩しい光と左肩の痛みで再び目を覚ますと、そこは病院のようなところだった。しかし部屋は一つしかなく、もう昼近いというのに、廊下に人の気配もない。先程の青年が、少し離れた椅子に座ったまま、うとうとと眠りかけている。
私がやっとのことで起き上がると、青年は目を覚ました。
「あ、お目覚めですね。よく眠れましたか?」
「は、はい。お陰様で…。」
青年の話を聞いていると、ようやくわけがわかってきた。
昨日の夜、私は確かに、影で悪事を働いている有名な剣術家の屋敷に入り込んだ。
しかしターゲットと戦っているうちに左腕を切り落とされ、そのまま意識を失ったが、直後運良く何者かに助けられ、ここで手当てを受けたというのだ。
「あの…私はどうしてここに…。」
私は一つ一つ確かめるように、青年に聞く。
「僕たちも別件で、あの男を追っていたんです。そしたらあなたが倒れているところに、鉢合わせしたというわけですよ。」
なるほど。
「それで、ターゲットの男は…」
「心配しなくていいですよ。今日の夕方には、もうこの世からいなくなることでしょう。」
そうか。これで全てわかった。
「…そういうことですね。よくわかりました。寝ずの番をしてくださり、ありがとうございます。そして私を助けてくださった方にも、深く感謝していると、お伝えください。」
「かしこまりました。」
そう言うと、青年は丁寧に頭を下げて出ていった。
あの青年に見覚えはないが、私と同じターゲットを追い、瀕死になった私を助けることができる者といえば、一人しかいない。ならば青年も、その者の仲間に他ならないだろう。
まさか、兄を殺した男に、命を救われるとは…
明るい日差しと涼しい風の入る小さな部屋で、再び押し寄せる睡魔とともに、乾ききった両目の瞼の間から、とめどなく涙が流れ続けた。
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