それからの数ヶ月間。二週間に一度程度のペースで芙弓は家にやって来た。自分から望んで遊びに来ていたのか、互いの養父や両親の意向なのかは分からないが、雪乃はとても楽しみにしていた様だった。
そんなある日の事。 ——今となっては、彼女が最後に僕等の家に遊びに来た日の夕方。芙弓が生まれたての赤ん坊程度のサイズの人形を雪乃に渡しているのを僕は偶然目撃した。それは飲み物を差し入れしようとしているメイドからジュースとお菓子の乗るトレーを取り上げ、二人が遊ぶ客室に入ろうとした時だった。
何かあったらすぐに分かるようにとドアは開けっぱなしにされている。差し入れを渡す前に少し、同じ年齢の子と遊ぶ雪乃の様子を見てみたくなり、ビデオカメラも片手にこっそり持って中を覗いていた為偶然目撃出来た。
雪乃が受け取った人形はサラサラとしたの金髪で、蝋燭の様に白い肌をしていた。首から下はタオルで包まれていただけだったみたいで、それを知らなかった雪乃は服装でも知りたかったのか、受け取ってすぐに素っ裸にしてしまった。
遠くからでも精巧に作られた物である事がすぐに分かったので、きっと秋穂老人の作品を渡す様に言われたのだろう。
彼女は人形師一家の者だ。人形ぐらい贈っても可笑しくはないが、精巧な人形程扱いが面倒だから、五歳の子供が受け取って喜ぶ様な物ではないだろうに……。
夜の帳が降りて月が昇り、いつもと変わらぬ美しさで僕等を魅せてくれている。今日も寝る前に絵本を読んでやろうと雪乃の部屋へ行くと、雪乃がベッドの上に色々な布を広げて遊んでいた。
『もうすぐ寝る時間なのに、僕のお姫様は何をしておいでなのかな?』
絵本を手に僕がそう尋ねると、雪乃は嬉しそうに微笑んだ。
『お洋服を用意してあげるの。すごいんだよ、ふゆみちゃんがね、人形をくれたの』
『そっかぁ、で?どんな人形なんだい?』
キョロキョロと部屋を見渡したが、僕が目撃した様な人形はどこにも置かれていない。
『……秘密』
そう言って、雪乃が首を横に振る。
『あれー?お兄ちゃんに秘密は駄目だよって教えていなかったかい?』
『今ね、お服着ていないから誰にも会いたくないんだって』
『……そ、そっか。それは残念だなぁ』
そんな子供らしい理由で、僕はこの日、あの人形を間近で見る事が出来なかった。
数日後の夕方近く。
絆創膏だらけのウサギは左腕に、子供が遊ぶには少し大きな金髪の人形を右腕に抱えて、庭の一角にある薔薇園のベンチに雪乃が座っているのを僕は学校の帰りに見付けた。即座にカメラを鞄から取り出し、まずはその様子をこっそり撮影する。憂いを帯びた姿にうっとりしつつ、僕は雪乃に声をかけた。
『ただいま、雪乃!庭の薔薇でも見ていたのかい?』
『お帰りなさい、お兄様。……あのね、今ね、二人に薔薇を見せてあげていたの』
僕の顔を見て嬉しそうに微笑む雪乃の顔が愛らしく、胸の奥に尊さを感じ叫びそうになる心をぐっと堪えながら僕は、椅子に座る雪乃の前に膝をついて座った。
『二人?って事は、やっと新しいお友達を紹介してもらえるのかな?』
『うん!さぁ、ご挨拶して』
白いシルクのケープみたいな物を着た金髪の人形を両手で持ち、そう言いながら雪乃がやっと僕にあの日の人形を見せてくれた。
『はじめましてこんにちは。僕はロイ。君の名前は?』
何処か見覚えのある雰囲気の人形に軽く会釈し、自己紹介をする。雪乃が居るおかげでごっこ遊びにはすっかり慣れたものだ。
『名前は無いの。付けちゃいけないんだって。だから「キミ」とか「アナタ」とか……好きに呼ぶの』
(名前を付けちゃいけない?なんだってまた?)
理由が分からず訊きたい気分になったが、五歳の子供が答えられるとは思えなかったので、僕はその疑問は自分の中で無理矢理握り潰した。それよりももっと気になる事があったからだ。
『ねぇ、雪乃。指のそれはどうしたんだい?随分いっぱい絆創膏が貼ってあるけど。ウサさんの絆創膏も、いつもよりも多くないかい?』
人形を持つ雪乃の小さな手にそっと触れ、僕は訊いた。
『この子のお洋服を作ってあげたの。お母様に少し習って、皆にも見てもらいながら頑張ったの』
(皆?あぁ、メイド達の事か)
『そっかぁ、とっても頑張ったんだね。雪乃は優しいね』
僕は雪乃の傍に寄り添い、人形なんかの為に沢山の怪我をした小さな妹の頭を優しく撫でてやった。
それにしても——
『……雪乃。その子、僕にも触らせてくれるかい?』
遠くから見ていた時に感じていた以上の精巧さに、僕は人形に対して驚きと興味が湧き、そう頼んでみたのだがあっさり断られてしまった。
『駄目、私以外は触っちゃ駄目なんだって。約束なの』
『少しだけでいいんだ。駄目かい?』
『駄目。ふゆみちゃんが作った大事な人形なの。だから駄目なの』
(……あの子、が?)
言葉を失い、一瞬だけ思考が停止した。とてもじゃないが、まだ五歳の少女が作れる様なレベルだとは思えなかったからだ。芙弓の中に人形を作る才能の片鱗が眠っていたのだとしても、あの人形は、そんなもので作れる様な代物じゃ無い。そんな事、触らせてもらえなくたって見ればすぐに解る。それ程にこの赤ん坊サイズの人形はあまりにもリアルで、誘拐でもしてきた子供を雪乃が与えられたとも言っていい程に人間っぽかった。
(これは、もう既に才能を開花させた者が作った物だとしか——)
『お兄様?』
僕の顔を覗きこむ雪乃の顔に、僕はハッと我に返り『あぁ、ごめんね。少し……その、ビックリしちゃって』と答えたが、少したどたどしい声になってしまった。
『ねぇ、雪乃。やっぱりそれ、お兄ちゃんにさわ——』
『駄目!約束は守らないと駄目なの!』
僕の言葉を遮り、却下の意を雪乃が下す。一度決めた事は絶対に変えようとしない頑固者な妹を前に、僕は素直に『分かった分かった。ごめんね?』と謝罪した。
『いいよ』
満足気に頷く妹の頭を撫でながら『雪乃が寝たら触ってみよう』と考えていた事は、多分一生妹に教える事は無いだろう。
待ちに待った夜。
日課である絵本の朗読をしてやると、今日は初めての針仕事で疲れていたのか、雪乃は話の途中ですっかり寝入ってしまった。
寝てしまえばこっちのもの。
このくらいの小さな子供は一度寝ると、動かそうが着替えさせようが、そう簡単に起きるもんじゃない事は実体験済みだ。 だが僕は念の為、実益も兼ねて、そっと雪乃のぷにぷにとした頬をつついてみた。もちろん反応など無い。一回、二回と押したが、やっぱり起きる事はなかった。
起きないという事は十分に確認出来た。だが、この感触の気持ち良さが少し楽しくなってきた僕がしばらくの間雪乃の頬をぷにゅぷにゅと押し続けていると、流石に眉を寄せ『うーん』と唸り声があがった。
『か、可愛いぃ……ゴホンッ』
胸の奥を鷲掴みにされたような錯覚を咳払いで打ち消すと、僕はそっと雪乃の細い腕を持ち上げ、妹の腕の中で瞼を閉じていた金髪の人形をそっと抜き取った。
『温かいな。まるで血が通っているみたいだ』
それが、人形を持った時の第一印象だった。だけどずっと 雪乃が腕に抱いていたのだ、きっと妹の体温が人形に残っているせいだとは分かっていても、そう感じずにはいられなかった。
そっと触れた頬や手にはとても弾力があり、起こした時に開かれた瞼には、人形独特の不自然さが全く無く、本物の瞳の様で……少し不気味だ。金色の髪は流石に作り物っぽさがありはしたが、丁寧に処理しており、とても柔らかい。小さな指先にはきちんと爪の様な物が埋め込まれ、本物と見紛わんばかりの仕上がりだった。
『こんなもの、五歳の子供が作れるはずが……』
この人形を目の前にして、人形だと一瞬で見抜ける者はまずいないだろう。それ程の物を、とてもじゃないが五歳の子供が作れるはずが無い。
(……でも、妹が嘘をつく事などありえない。という事は、芙弓ちゃんが嘘を?いや、わざわざそんな事をする意味があるだろうか。友人に贈る初の品に、嘘をつく必要など無いはずだ。そんな事をする意味もない。義父の作った物なのなら、正直にそう言って渡したとしても、雪乃は心から喜んだだろうし)
じゃあ、やっぱりこれは、あんな幼い少女が……自分で?
『信じられない。まさか、そんな』
僕は疑いの目を人形に向けたまま、軽く首を横に振った。手先が器用な方である僕でも、こんな物は作れない。たとえ技法を習っていたとしても、手先がまだ覚束無い年齢では到底無理がある。
(こんな物を本当にあんな子が?)
どうやって?習えば誰でも作れるような技法か何かがあの家にはあるのか?いや……やっぱり、何か嘘をついているんじゃ。——頭に浮かぶ疑問を解消する術もなく、ただ興味だけが胸に湧く。元来好奇心が強いせいか、気になった事はとことん追求しないと気が済まない。なのにそれが出来ないせいで、心にモヤモヤとした気持ち悪さが生まれた。
(だけど、どうやって調べる? 雪乃に訊いても意味は無いし、これはもう本人に訊くしかないか?)
『よし!』と心の中で呟き、再び雪乃の腕を持ち上げると、僕は軽い名残惜しさを感じながら妹の腕の中に人形を戻した。
(今度会った時にでも訊いてみよう)
分からない事は早く調べるに越した事はない。疑問は僕を捕らえ、他の事を考える事を許してくれなくなる傾向があるからだ。
(でも、どう訊こうか。相手は雪乃と同じ五歳の子供だ。どうしたものか……)
そんな事を考えながらゆっくり雪乃のベッドから降りると、僕はサイドテーブルに置かれている鈴蘭の様なデザインをしたランプの紐を引き、電気を消した。そして雪乃の傍に手を置き、身体を支えると、柔らかい妹の頬にそっとおやすみのキスをする。
『おやすみ、いい夢を』
雪乃の髪をそっと撫で、その感触を楽しむと僕は、妹の眠る寝室を後にした。
今度会ったらどう訊こうか。
それ以前に『あの子はあまり話さない』と雪乃が言っていたからなぁ。僕とは話してくれるだろうか?
——だが、その晩僕が考えていた『今度』はこなかった。
何日も、何週間も芙弓の来訪を待ったのに、人形を雪乃に渡したあの日以来、少女は僕らの家に来なくなったのだ。
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