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「——おーい、もういい加減呆けるのは止めておけ」
不意に聴こえた聞き慣れた声で、僕は記憶の回廊から突如引き戻されてしまった。『今』 と『古い記憶』とが目の前で交差し、今自分がいるべき『現実』が何処なのかが分からなくなる。そのせいでぼんやりする瞳のまま声のする方を見ると、そこには長年の親友である佐倉武士の姿があった。
「やあ、君か。そう言えば、今日はウチに来ていたんだったね。すまない、少しぼんやりしていたよ」
当時は父が、今は僕が理事長をしている高校に学生として通っていた時代。同じクラスになった縁で今でも交流のある武士は現役の陸上自衛官である。超が付くほどの名門進学校に入学しておきながら、就職先に陸上自衛隊を選んだ変人だ。『公務員』という堅実とも言える道に進んだ気持ちは分かるのだが、何故にそこで官公庁ではなく、陸上自衛隊であったのかは正直いまだによく分からないでいる。高卒のまま試験を受け、普通に二等陸士からのスタートなのでエリートコースとも言えないから余計に。
「おもてなしを生き甲斐にしているお前が、客人を前に呆けるとは随分珍しいんじゃないか?ノックした音にも無反応だったから、悪いが勝手に部屋に入らせてもらったぞ」
さっきまで身を置いていた記憶の中とは違うインテリアの置かれた客室の中、ソファーに座る武士が背もたれにガタイの良い体を預けながら言った。
「すまないね。少し……疲れが溜まっているみたいでさ」
「それこそ珍しい。——まさか……俺のせいか?」
一度は体を預けたソファーからその身を起こすと、武士が真剣な顔で僕に訊いてきた。
「あはは!まさか、違うよ!……違う、これは本当だ」
「ならいいんだが」
武士が真剣な顔でそう言う理由は分かっている。 昨日珍しく妹の雪乃から僕にメールをくれた理由も、仕事の忙しい武士が今日僕の実家に訪れている訳も。
「……俺と雪乃の婚約の事は、もう?」
「あぁ、もちろん」
妹と親友の婚約報告と僕等の両親への挨拶。
それが、今日武士がウチに来ている理由だ。
学生時代。僕が写真を見せて可愛い妹を自慢した数少ない相手だった武士が、共通の知り合い(僕にとっては従弟)の結婚式で偶然雪乃に対面し、二人は少しづつ恋に落ちていったらしい。交際している相手がいると初めて雪乃から聞かされた時かなりショックだったが、最近はあまり覇気の無かった雪乃が武士に出逢った事で元気を取り戻したのはとっても嬉しかった。
そしてその相手が僕の親友の一人である武士だったという事も、何故か……不思議と。
まぁ、予兆は最初から見えていたので無意識に覚悟していた部分があったのかもしれない。
「当然だろう?指輪を貰った当日に雪乃が教えてくれたよ!まぁ、『聞き出した』と言った方が正しいかもしれないけどね。変に浮かれていたんで、気になって尋問並みに問い詰めた様なもんだったから」
「……そうか。お前への報告が一番難航しそうだと俺も雪乃も心配していたんだが……。その、雪乃と喧嘩とかはしないで済んだか?」
「そんな事はしていないさ。僕はいつだって雪乃の味方だからね!妹が選んだ相手なのなら文句なんか言うものか。もっとも君が、財産目当ての阿呆だったのなら話は別なんだが、残念ながら武士にはそんな心配は要らないって事ぐらい長い付き合いの僕が一番わかっているからね。結婚なんて、君達の交際を知った時点でもう覚悟していた事でもあるから問題無いさ。まぁ……雪乃がお嫁にいくのは寂しいって気持ちは、もちろんあるけどね」
「……最初の頃、黙ってお前の妹と付き合っていた事は謝る。でも本気なんだ、雪乃は別なんだよ。だから俺は、お前から雪乃を攫っていく事を謝るつもりは無い」
「『盗られた』とも思っていないし、心配しなくていいよ。血の絆が僕等にはあるから、一緒に居る事が少なくなっても、きっと平気さ」
「お前……重度のシスコンの割には随分寛容だったんだな」
「雪乃の事は大好きだよ、愛してる。ボクが世界一雪乃を深く愛していると断言しても過言じゃない程にね!でも、僕の『好き』『愛してる』と武士が抱えている『好き』は違うものだからさ。だから武士に対して嫉妬はしないし、邪魔もしない。雪乃の幸せが、僕の幸せなんだからね」
「わかったよ。お前の事、正直妹が関わるとシスコン変人馬鹿だと思っていたが、撤回しないといけないようだな」
武士が腕を組み、深く頷く。
「そ、それは流石に言い過ぎじゃないかい?」
シスコンである事は普通に公言していたので誰でも知っている事なのだが、思っていた以上の酷い言われようで額から少し冷たい汗が流れ出た。
「俺だけじゃない。ダチは皆、同じように思っていると思うぞ?まぁ、少し抜けてる弟の一哉と、大和の奴は違う見解かもしれないけどな」
自身の弟と共通の友人名を出しながら、武士は笑いながらそう言った。
「まぁ否定はしないけどね、ほぼ事実と合っている訳だし」
僕は軽く息を吐くと、来客用のテーブルの上に置いてある、既に冷めてしまった紅茶のカップに手を伸ばしそれを口にした。『新しい紅茶を頼もうか?』とちょっと考えたが、武士とのこの空間に他人が割って入られるのは長年世話になっているメイド達とはいえ少し嫌だなと思い、僕は冷めた紅茶の入るカップを元の場所に戻した。
今まで出来ないできた話を武士と出来ている事が少し嬉しい。 久しぶりに会っても、結局は学生時代の延長で、いつもふざけた話ばかりだったからなぁ。
(そんな彼が、僕の義弟になるのか……)
そう考えると少し不思議な気持ちになり、僕は軽く天井の方に視線をやった。