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──皆に実態を見られても、仲達は顔色ひとつ変えることなく、ただ、地べたに突っ伏したままだった。
雨は本降りになってきた。
書物を庇ってのことなのか、成りきっている、のか、濡れ鼠になりつつあっても仲達は、ピクリとも動かない。
「ああ、何をしているの!あなた、下女でしょう!早く手を貸しなさい!」
仲達を起こそうと、春華は、やっきになった。
その様子を軒下から、男が眺めている。
「まったく、そこまで、されますか」
半ば、呆れつつといった具合で、男は、肩をすくめる。
「仲達殿、曹操様には、これまで、と、お伝えしておきましょう。しかし……」
「まあ、あなた様は!」
春華が、とっさに、割って入った。なぜか、と、問われても分からなかったが、どうしても、切り抜けなければならない。そんな気がしたからだ。
「おや、お前様は?」
子供、とはいえ、側で立ち尽くしている下女とは、明らかに異なる身繕いと、度胸のようなものに、男は、何者か探るかのよう、控えめに春華へ声をかけた。
「あぁ、これは、我が、妻。まだ、幼いが。成人したあかつきには、私に変わり、屋敷を取り仕切る」
仲達が、つっけんどうに、いい放つ。
「なるほど、そうでしたか。ご正妻様が、いらっしゃるのならば、尚更のこと、曹操様の意向をお受けするべきだと、私は、思いますがね」
男は、春華へ声をかけていたはずなのに、結局、仲達と会話していた。それも、なにやら、言い含む、嫌みな口調で。
「旦那様は、ご覧の通り!体が自由にならないのです!そこの、ご客人、手伝いが嫌ならば、どうか、誰ぞ呼んで来てもらえませんか?この下女では、話にならないようです!」
クスリと仲達が、笑ったような気がした。
春華は、ただただ、騒ぎにならないように、と、思いが走り、おそらくは、曹操の使いであろう男を追い返すが如く、言葉をかけていた。
これで、いなくなれば良いのだが。どのみち、騒ぎにはなるだろうが、このまま、こちらの様子を見られていては、ますます、言い訳続きになるだけだ。
「ああ、使者殿、そうだ、誰ぞ呼んでもらえぬか?」
「私が?その妻殿が、呼びに行けばよろしいでしょうに。下女が役に立たないならば」
言うと、男は踵を返した。
このあと、何が起こるのか、春華には、想像もつかなかったが、取りあえず一難去ったのだろう。
仲達も、どこか、強張っていた顔つきが、緩んでいた。
「あー、そうだな、春華、誰ぞ呼んで来てくれ。いや、家令《しつじ》を頼む」
いきなり、名を呼ばれ、そして、誰でもと言いつつも、家令をと、指名され、春華は混乱した。
しかし、自分も含め、これ以上、雨に濡れる訳にはいかなかった。
はい、と、返事をすると、春華は、足早に家令の元へ向かった。
そして、春華は、有無を言わさず、家令を裏庭へ連れて行った。
そのただ事ではない様子に、家令も何かを、感じとったようで、例の使者の見送りを部下に任せると、春華と共に駆け足で、仲達のいる裏庭へ向かったのだった。
ひっ、と、春華は声をあげる。
戻って見れば、下女は倒れこみ、仲達は、書物を軒下へ移して、自らも、雨を避けるため、先ほどまで男が立っていた場所に座り込んでいた。
「ああ、気を失っているだけだ。後を頼む」
仲達は、やって来た家令に命じた。
家令は、光景に目を細めると頷いた。
「……それって、母上?」
「あー、家令《しつじ》だけは、父上のことを知っていた訳だ……」
「……が、母上、そのあと、というのは……つまり……、いや、まさか……」
母の話に三兄弟は、戸惑いを隠せない。
「まあ、師は、さすがね、鋭いわ。そう、思っていた以上に、事は深刻だったみたいでねぇ」
言いながら、春華は、お前達、箸が進んでませんよ?もっと、食べなさい。と、食事を勧めるが、子供達にとっては、思いもよらない、きわどい展開に、食など進むはずもない。
「あ、あの、一の兄様。つまりですよ、下女は……」
「ああ、家令に始末されたって、ことだ」
うわっ、と、声を出して、榦は、箸を落としそうになる。
「ああ、確かに、曹操様をたばかっていた訳だし、それを、まともに、下女に見られてしまった。と、なると、口封じは、必須。へたすれば、下女の密告によって、一族の命が危ない……」
「で、ですが、二の兄様!下女ですよ!」
「うん、そうだけど、まだその頃は、曹操様も、帝を擁護されているだけのお立場で、そして、まだ、御自身で国は建てられていなかった。もちろん、周辺に、国と呼べるものもなく、まあ、帝が国土全てを治められていた、という、形、だった。今ほど、誰も、権力をもたず、そして、小競り合いばかりが続いていた時代だったから……」
「榦は、特に分からないだろうが、昔の話だ。そして、曹操様も、人材集めにやっきになっていた頃で、どうにか、自らがお立ちになりたいと、まあ、あからさまに、野望を見せていた頃……、帝という威をお借りして、世の平定に疾走されておられたのだ」
「そう、昔の話。皆、若かったし、あちらこちらで、陰謀蠢く時代だったわ。たかだか、下女だからと、油断したら、大変な事になる。と、いうよりも、間者が忍んでいた、という話もちらほら聞く時代だったのよ」
「えー!母上!それ!その、下女は間者だったのですか?!」
「さあ、どうかしら。今となってはねぇー。間者、と、言うならば、使者様が、それにあたるかも。必要以上に、屋敷にやって来られていたから」
「はあー、そのたび、父上も、芝居がかった事を行われていた訳ですね。しかし、書物に負けるとはなぁ」
そこが、父上らしいじゃないの?と、春華は言うと、榦や?サトウキビの汁をいただきますよ?と、椀を口へ運んだ。
「あ、あ!私も頂きます!」
榦も、好物を手にとりつつ、それにしてもと、ごちた。
「なんだか、面倒臭い話じゃないですか。結局、時勢を見るために、仮病を使っていた、それも、母上まで騙して、大がかりな芝居を打っていたと……」
あっ!と、兄二人が顔を見合わせる。
それは……、今と被っていないか。
「……そうね、私の取り越し苦労かしら……」
椀を手にとって、うつ向く母に、師も和も、少しばかり、不安になった。
今度の騒ぎも、父の謀りであったなら、何か、を、待っている事になる。それは、あまり考えたくないことだった。
つまりは、政変を起こす機会を狙っていると……。そうなれば、三兄弟は、どう転んでも、命を狙われる事になる。そして、動乱の世が、再び始まるかもしれないのだ。
確かに、斜に見てみれば、今の国の中核は、やや、片寄りすぎている。その強引さで、皆を束ねているのだと、思い込んでいる。が、その思いこみは、もしや、国を傾ける事に繋がるのか──。
父、仲達は、何かを感じ取っているのかもしれない。いや、本宅から離れたということは、すでに、政変を起こす準備に入っているのかもしれない。
それは、あくまでも、想像上のもの。母の言うところの、取り越し苦労であって欲しい。
満足げに、好物のサトウキビの汁を飲む弟の姿を見ると、父は、ただ老いてしまっただけなのだと、師も和も、思いたかった。