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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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俊介が離婚届を置いて出ていってからも、一花はすぐには名前を書けなかった。
翌朝、目を覚ますと、テーブルの上には昨夜と同じように離婚届が置かれている。
俊介の署名も、押された印鑑も消えてはいなかった。
まだ、ちゃんと話せていない。
もう一度向き合えば、気持ちが変わるかもしれない。
そう思いたくて、何度も俊介へ電話をかけた。
《一度でいいから、ちゃんと話したい》
《昨日のまま終わりにしたくない》
メッセージを送ってからも、何度も画面を確認した。
その日の夜も、次の日も、玄関の外で物音がするたびに顔を上げた。
もしかしたら俊介が帰ってきたのではないか。冷静になれば、もう一度話してくれるのではないか。
そんな期待を捨てきれないまま待ち続けたが、玄関の扉が開くことはなかった。
ようやく返ってきたのは、短いメッセージだった。
《ごめん。気持ちは変わらない》
一花はその一文を、長い間見つめていた。
もう一度電話をかけた。今度も俊介は出なかった。
《本当に、これで終わりでいいの?》
最後にそう送ったのは、それから二日後だった。
既読がついてからも返事はなく、諦めかけた頃になって、ようやく画面に新しい通知が浮かんだ。
《……ごめん》
たった、それだけだった。
一花はスマートフォンを伏せた。
俊介が置いていった離婚届は、数日間ずっと同じ場所にあった。病院から帰るたびに目に入り、朝になっても消えることはない。
まだ話したいことはいくらでもあった。
それでも俊介は、もう話し合うことさえ望んでいない。
これ以上待っても何も変わらないのだと、認めるしかなかった。
一花はペンを手に取った。
自分の名前を書くまでに、何度も指が止まった。それでも最後には必要な欄を埋め、離婚届を提出した。
こうして、一花は桜井一花ではなくなった。
旧姓の、朝倉一花へ戻った。
離婚が成立すると、一花はすぐに仕事を探し始めた。
悠真は今も目を覚まさない。いつ退院できるのか、その後どれほど治療やリハビリが必要になるのかも分からなかった。
病院へ通う交通費もかかるし、今の仮住まいも、いつまでもいられる場所ではない。
いずれは悠真と暮らす新しい家を探さなければならない。
そのためにも、今は働くしかなかった。
求人を見つけては応募し、何度も面接へ足を運んだ。けれど、思うようにはいかなかった。
マスクをしていても隠しきれない火傷痕へ、面接官の視線が向くことがある。
名前を確認したあと、わずかに空気が変わることもあった。
事件は大きく報じられ、一花について検索すれば、否定したはずの噂も含めてさまざまな情報が残っている。
もちろん、それが不採用の理由だとは誰も言わない。
それでも連絡が重なるたび、嫌でも考えてしまった。
ようやく決まったのは、郊外にある物流倉庫の夜勤だった。
「朝倉さん、そこ止まってるよ!」
「はい!」
一花は慌てて目の前の段ボールへ手を伸ばした。
広い倉庫内には、ベルトコンベアの駆動音と台車の車輪が床を転がる音が絶えず響いている。
次々と運ばれてくる荷物を仕分け、指定された場所へ流していくが、一つ遅れれば、そのぶん後ろがすぐに詰まっていく。
「ぼーっとしてる暇ないからね!」
鋭い声を飛ばしたのは、主任の三島だった。
四十代半ばほどだろうか。少し癖のある髪を後ろできつくひとつにまとめ、倉庫内を忙しなく動きながら、あちこちへ指示を飛ばしている。
初めて顔を合わせた時、三島の視線がマスクから覗く一花の火傷痕へ向いたことには気づいていた。
けれど、それだけだった。
事情を尋ねられることもなければ、気遣う言葉をかけられることもない。
「やる気ないなら帰って。あるならテキパキ動く!」
「すみません!」
「謝ってる暇あったら手ぇ動かして!」
「はい……!」
一花はすぐに次の箱を抱えた。
身体はすでに悲鳴を上げていた。
長時間立ちっぱなしのうえ、絶えず荷物を持ち上げては運ぶ。
慣れない動作に腕は重く、腰には鈍い痛みが溜まっていた。額には汗が滲み、マスクの内側も蒸れて息苦しい。
動くたび、頬から首元にかけて残る火傷痕がつっぱるように引き攣れ、じわじわと痛みを訴えていた。
それでも周囲の作業員は誰ひとり手を止めず、当たり前のように持ち場を回している。
一花も、遅れまいと必死で食らいついた。
悠真のためにも、ここで辞めるわけにはいかなかった。
夜勤が終わった頃には、全身に鉛でも詰められたようだった。
それでも、一花の足はそのまま病院へ向かっていた。
コメント
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うわあ……第50話、読み終わりました。 一花が離婚届に名前を書くまで、何度も指が止まる描写が胸に沁みました。俊介からの「ごめん」だけの返信、あれだけで終わらせたくないのに終わらせるしかなかったもどかしさがひしひしと……。 それから倉庫の夜勤、三島さんの「謝ってる暇あったら手ぇ動かして!」って、厳しいけど真っ直ぐで、むしろ一花には合ってるのかなと思いました。火傷痕や事件のことを詮索せず、淡々と仕事に向き合わせる感じが。悠真のために身体を張って働く一花、強くなったなあ。これからどうなるのか、すごく気になります😢