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足音が自分のものかどうかも、もう曖昧だった。どこを歩いているのかも定かじゃない。ただ、音を、空気を、避けるように、逃げるように。
遥は、ほとんど無意識のうちに校舎の端へと歩いていた。
人気のない廊下の窓際。
古い鉄枠の窓ガラスに、夏の光が鈍く映る。
その前に立った瞬間、急に、膝から崩れそうになった。
壁に背を預ける。いや、しがみついた。
自分の体重すら支えられない気がして、爪が壁を掴んでいた。
息が荒い。
でも、それは喘ぎじゃなかった。
吐き気と、嗚咽の寸前の呼吸。
胸がぎゅうと締めつけられていた。
痛みじゃない。
でも、壊れていく感触があった。
(……あいつの顔、見ちまった)
たったそれだけのことで。
目が合っただけで。
身体の奥底に沈んでいた感触が、熱が、夢の中の吐息が、全部、皮膚を通して蘇ってくる。
(気持ち悪い。……オレ、気持ち悪い)
あれはただの夢だった。
日下部が何かをしたわけじゃない。
なのに──
あいつの手が、
あいつの指が、
あいつの声が、
夢の中で、自分を、犯した。
そして自分は、それに──
感じて、濡れて、声を漏らして、求めて、
……悦んだ。
(最低だ。……殺したい)
息が詰まる。
もう空気の吸い方さえわからない。
この喉を、
この身体を、
この脳を、
全部、切り落としてしまえたら。
──なのに、生きている。
朝が来て、目が覚めて、学校に来て。
そして、日下部がそこにいた。
あいつは普通で、自分だけが異常だった。
(近づいたら……また、あんな夢を見ちまう)
(オレが穢す。……あいつを、壊す)
手が震えている。
指の先が、自分の爪で引き裂けそうなほど強く壁を抉っていた。
(なんで……)
ぽつりと、喉の奥で声がこぼれた。
誰にも届かない、問いかけ。
(なんで……あいつじゃなきゃ、ダメだったんだよ)
蓮司じゃない。
晃司でも、玲央菜でも、颯馬でもなかった。
もっと残酷で、もっと汚れてる人間は他にいくらでもいたのに。
(なんで、よりによって、あいつだった)
守りたかった。
遠ざけていた。
触れられるのが怖かった。
──でも、自分の夢は、
あいつに、触れてほしかった。
抱かれたかった。
求められたかった。
(死にてえ……)
声にならない叫びが、胸の奥を何度も叩いていた。
誰もいない廊下の隅。
ただ遠くで、チャイムが鳴る音だけが響いていた。