テラーノベル
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廊下の隅、ひと気のない空間に、微かに埃の匂いが漂っていた。
湿り気を帯びた夏の空気。
窓の向こうで鳴く蝉の声だけが、やけに鮮明だった。
遥は、背を壁に預けたまま、立った姿勢で崩れていた。
頭を抱えても、指の隙間から漏れてくる感覚がある。
視界に光はなく、ただ暗く、苦しく、音だけが浮かび上がる。
──そういうときはね、黙って耐えなさい。
(……)
──そうすれば、そのうち終わるのよ。
泣くなって言ってるの、うるさいでしょ。
義母の声。
遠く、低く、やけに現実的だった。
決して怒鳴らない、感情を持たないトーン。
それがいちばん、遥の心を削った。
(違う……違う、オレが……)
否定する声が喉の奥で泡になって消えていく。
それをかき消すように、今度は別の声が響いた。
──痛ぇの? そんだけで?
じゃあさ、どこまでだったら我慢できんの?
晃司の声。
皮肉と嘲笑に満ちた、あの独特の響き。
何度も聞いた。
何度も聞きたくなかった。
でも、身体のどこかが、それを覚えている。
──あーあ、泣いてる。やっぱり遥、すぐ泣くねぇ。
玲央菜の声が、冷たく背筋を撫でる。
──あんたさ、自分がどう見えてんの?
誰かに“欲しがられる”価値あると思ってんの? ほんと気持ち悪。
──“それ”のせいで、こっちまで不快なんだけど?
(やめろ……)
言葉にならない。
けれど、喉が震える。
吐き出せばきっと、何もかもがこぼれてしまう気がして、ただ唇を閉じるしかなかった。
──ご褒美だよ、遥。
蓮司の声が、耳のすぐ近くでささやいた。
──おまえが“壊れる”とこ、すごく綺麗だと思った。
それ、あいつにも見せるの? ……それとも、俺だけのもの?
(違う……違う……)
頭を振っても、消えない。
声はどこからか届く。
過去の記憶が勝手に喋っている。
──どうせ、守れないくせに。
誰かを“好き”とか、“守りたい”とか言って、自分が気持ちよくなりたいだけでしょ?
颯馬の声は、子供の声のままで響いた。
小さくて、でも鋭くて、やけに真実めいていた。
(違う、違う……! そんな……つもりじゃ……)
何度否定しても、響いてくるのは自分の奥底にある言葉だった。
相手の声を借りただけの、自分の声。
──あいつが近くにいると、
全部、壊したくなるくせに。
(……っ、)
一筋の涙が、音もなく頬を滑り落ちた。
指で拭うこともできず、
ただ、震える喉と、潰れそうな胸と、熱を持つ皮膚が残っていた。
汗のせいか、涙のせいか、わからない。
この身体が何を感じているのかも、もう分からなかった。
(壊したいなんて、思ってない……思ってないのに)
──だったら、なんであんな夢、見たの?
(知らない……)
──ほんとは、あいつの顔が歪むのを、
見たかったんじゃないの?
(……やめろ)
──悦んでくれるって、信じたかっただけじゃないの?
(違う……違うんだ)
──自分が汚れてるって知ってるくせに。
それでも欲しがったのは、おまえだろ?
(……っ……)
遥はその場に膝をついた。
崩れた音が、靴の裏に吸い込まれる。
影が沈んでいく。
声はもう、どこにもなかった。
でも、心の奥には焼きついていた。
「……死にてえ」
ぽつりと、呟いた。
けれど、それは願いでも叫びでもなかった。
ただ、事実のように。
目の前に突きつけられた現実の一枚として。
自分が“生きてしまっている”という事実を、
ただ、どうしようもなく呪っていた。
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