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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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その問いに、答えられる者はいなかった。
冬馬様は、来訪帳を閉じて引き出しに戻し、鍵をかけた。それから、私のほうを見ずに言った。
「明日、日下部のところへ行く。父の遺言を、もう一度、この目で見る」
日下部先生は、丸の内に事務所を構える弁護士で、先代の頃から、久遠寺家の法律の相談を引き受けているのだという。
「君も来い」
「私が、ですか」
「紙を見るのは、君だ」
*
翌朝、玄関で、真柴さんが冬馬様に帽子を差し出した。
「日下部先生のところへ、地所の件でございますな。奥様も御一緒とは、お珍しい」
「帰りに、妻の帯締めを見る」
冬馬様は、ステッキを受け取らずに、自動車へ向かった。
真柴さんは、差し出したステッキを、静かに傘立てに戻した。それから、思い出したように、私のほうを向いた。
「恐れ入りますが、奥様。篠原君が鎌倉へ届けた百合絵様の宿題は、ずいぶんと重い包みでございましたな。算術の帳面が一冊きりと、伺っておりましたが」
心臓が、喉の下で跳ねた。
「大奥様が、ほかにも本を何冊か、お持たせになったのでしょう。百合絵様は、一冊も開きませんでしたけれど」
「さようでございますか」
真柴さんは、考えるように、左の眉を指でなぞった。
一度。
それから、目尻に皺を寄せた。
「お嬢様らしゅうございますな。行ってらっしゃいませ」
自動車が門を出るまで、私は、膝の上で指を組んでいた。爪の先が、手の甲に食いこんでいた。
*
日下部先生の事務所は、丸の内の、赤煉瓦の建物の三階にあった。
白い顎髭を短く刈りこんだ、小柄な老人だった。冬馬様を「御前」と呼び、私には、椅子を自分で引いてくれた。
奥の金庫から、桐の箱が出てきた。油紙の包みをほどくと、白い封筒が一通。
「先代様の御遺言状でございます。大正六年の三月、御葬儀のあとで、親族の御方々の前で開封いたしました」
冬馬様が、封筒を私の前に置いた。
「見てくれ」
厚手の罫紙だった。
上端に、久遠寺家の紋。輪の中に、葉が五枚。今の紋だ。四方を、子持ち罫が囲んでいる。
墨の字は、太く、伸びやかだった。
遺言状
家督ハ長男冬馬ニ相続セシム
大正五年十月 久遠寺宗隆
署名の下に、大きな朱の印。
私は、ルーペを当てた。
紙に、おかしなところはなかった。墨にも、印にも。宗隆、の二字だけが、ほかの字より大きく、勢いがあった。とくに「隆」の字は、旁の最後の横画を、右へ長く長く引いて、終わりでわずかに跳ね上げている。一度見たら忘れられない、癖の強い名だった。
「本物です」
私は、顔を上げた。
「この紙も、この字も。嘘は、ついておりません」
冬馬様は、うなずいた。それから、日下部先生のほうへ向き直った。
「先生。父が、もし、これより前に、別の遺言を書いていたとしたら、どうなる」
先生は、白い眉を上げた。
「前の遺言でも、後の遺言と食い違わないところは、生きております。たとえば」
先生は、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「どなたかを、我が子と認める、という一条。民法では、遺言で子を認知することが許されております。この御遺言状には、そのようなことは何も書かれておりませんから、前の遺言にそういう一条があれば、そちらは、そのまま生きることになりますな」
「認められた子は、どうなる」
「庶子として、先代様の御家の籍に入られます。御前の、御兄弟ということに」
冬馬様の手袋の指が、膝の上で、かすかに動いた。
「御前に御子がおいでにならず、御前が御隠居なさるか、万一のことがあれば、次の御当主は、御家族の中から選ばれます。そのとき、御兄弟がおいでなら、まず、その方です。百合絵様より、先に」
先生は、咳払いを一つした。
「もっとも、華族の御家督のことですから、宮内省の宗秩寮の御認可が要ります。親族の御方々のお考えも、伺わねばなりません。……仮の話で、ございますが」
冬馬様は、礼を言って立ち上がった。
私は、遺言状の「隆」の字を、もう一度だけ見た。右へ長く引いて、跳ね上げる横画。
目に焼きつけておこうと思った。いつか、どこかで、この字の偽物に会うかもしれないから。
*
帰りの自動車の中で、冬馬様は、一言も話さなかった。
銀座の小間物屋の前で、自動車が止まった。冬馬様は、先に降りて、私に手を差し出した。
「帯締めを見ると、言ってある」
帳場の主人が、黒い手袋の客を見て、慌てて前掛けを締め直した。
店の奥で、冬馬様は、並べられた帯締めを一本ずつ手に取り、長いこと迷ってから、淡い藤色の一本を選んだ。
「嘘は、本当にしておけば、嘘ではなくなる」
包みを私に渡しながら、冬馬様は、そう言った。
それから、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「……君に似合うと思ったのは、本当だ」
屋敷に戻ってから、私は、紙を並べた。
小夜子様の擦り出し。父上様の御名、いくつも、いくつも。
大奥様の言葉。御遺言が、二通。
明治の古い紋の、焼けたような色の罫紙。刷った年月の入っていない隅。
明治の書類に見せかけるための紙に、先代様の御名を練習して、明治の日付で書く、もう一通の遺言。
それが、誰かを我が子と認める遺言なら。
得をするのは、認められる、その誰かだ。
先代様に、外で産ませた子がいたのだろうか。
私は、仏間へ行った。小夜子様が毎朝手を合わせていたという、先代様の御写真を、見てみたくなった。
仏壇には、先代様の位牌と並んで、二つの位牌がある。小夜子様と、千鶴さん。私は、二つにも手を合わせた。
御写真は、位牌の後ろの、小さな額の中にあった。羽織袴の、厳しい顔の老人。古い写真で、顔の細かいところは、ぼんやりと霞んでいた。
「お父様の写真なら、大広間の油絵のほうが、ずっと似ているわ」
振り返ると、百合絵様が、襖の陰から顔を出していた。
*
大広間は、夕方の光で、薄暗かった。
四十畳の奥の、床の間の脇に、大きな額が掛かっていた。
先代様の、油絵の肖像だった。
黒い羽織に、袴。肘掛けのある椅子に、少し身を斜めにして座っている。右手は、膝の上の扇子に。
左手は、顔のほうへ上げられていた。
人差し指の先が、左の眉に、そっと当てられている。
「考えごとをなさるとき、いつもそうしていらしたのですって」
百合絵様が、私の隣で、絵を見上げた。
「画家の先生が面白がって、そのまま描いたの。お兄様も、同じ癖よ。親子って、いやね」
それから、声をひそめた。
「でも、お母様は、この絵がお嫌いなの。大広間で親族の集まりがあっても、一度も見上げないのよ。お父様は、ほとんどお家にいらっしゃらなかったから」
百合絵様は、肩をすくめて、廊下へ戻っていった。
私は、一人で、絵の前に立っていた。
左の眉を、指でなぞる。
冬馬様の癖だ。考えこむとき、いつも。
けれど、冬馬様は言った。父は、家に寄りつかなかった、と。猩紅熱の三晩も、英国へ発つ朝も、いなかった、と。そんな父の手つきを、子どもが、どうやって真似るのだろう。
真似たのではない。
生まれつき、持っていたのだ。
そして、今朝。
玄関で、百合絵様の宿題の重さを口にしながら、同じ指が、同じ眉をなぞっていた。
一度。
書生として、長いあいだこの家に仕えていれば、主の癖が移ることもあるだろう。そう考えようとした。
けれど、先代様は、ほとんど家にいなかったのだ。息子にさえ、手つきを見せなかった人の癖が、書生に移るだろうか。
私の頭には、別の考えが、どうしても居座って動かなかった。
背後で、畳が鳴った。
冬馬様が、大広間の入口に立っていた。
私の顔を見て、それから、私の見ていた絵を見上げた。左手を、眉に当てた父の姿を。
冬馬様は、長いあいだ、何も言わなかった。
自分の左手が、知らぬ間に、顔のほうへ上がりかけているのに気づいて、冬馬様は、その手を、ゆっくりと下ろした。
「宗介は……父の子なのか」
コメント
1件
ああああ第62話もエモすぎる……!!😭💕 遺言状の“隆”の字、一度見たら忘れられない癖のある字だって描写、もうそこからドキドキが止まらなかった…。 それに真柴さんの眉をなぞる仕草、先代も冬馬様も同じで。あれ、絶対「血」だよね…? 「嘘は本当にしておけば嘘ではなくなる」って、冬馬様が藤色の帯締め選んでくれたシーン、キュンとくるけど切なくて泣ける🥺 大広間の油絵の前で自分が知らずに眉に手をやる冬馬様、その手をゆっくり下ろすところ、心臓ぎゅってなった… 次が待ち遠しすぎるよ〜!!🌸