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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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冬馬様の問いに、私は答えなかった。
答えを持っていなかったのではない。口に出せば、それが本当になってしまう気がした。
冬馬様も、それ以上は訊かなかった。肖像画に背を向けて、大広間を出ていった。
その晩、厨房の明かりは、遅くまで消えなかった。
八月二十日の朝、篠原さんが、紺の布張りの来訪帳を風呂敷に包んで、華族会館へ返しに行った。
冬馬様は、会館の書記に宛てて、手紙を一通持たせた。この帳面は、いずれ警察か宮内省が改めることになるかもしれない。それまで、封をして、会館の金庫に納めておいてほしい、と。
「真柴さんには、何と」
「百合絵の宿題の、続きだそうだ」
冬馬様は、にこりともせずに言った。
*
その日の夕方、お鈴が、厨房の裏口から顔を覗かせた。
前掛けの裾を握りしめて、息を切らしている。
「奥様。家令さんが、電話室でお話ししてるのを、聞いちゃいました」
玄関の式台を磨いていたら、電話室の硝子戸の向こうから、声が漏れてきたのだという。
「明日の二時に、ミモザで、って。御分家の御二方にも、そのように、って」
「ミモザ」
「何のことか、わかりませんけど。明日は、家令さんのお休みの日です。月に二度の」
銀座の、カフェー・ミモザ。
麗子様に呼び出されて、去年の夏に一度入った店だ。蓄音機と、白いエプロンの女給たちと、甘いソーダ水の店。
家令が、休みの日に、分家の御当主たちと会う場所としては、あまりに似合わなかった。
似合わない場所を選ぶのは、屋敷の誰にも、見られたくないからだ。
*
その夜、百合絵様が、いつものように枕を抱えて、私の部屋に来た。
私は、百合絵様を布団の上に座らせて、鎌倉で見たものを話した。
来訪帳の一行。朱印の上に乗った、青黒いインク。あの晩、東京にいたはずの人が、本当はどこにいたのか、誰にもわからないこと。
話しているあいだ、百合絵様は、枕を抱いたまま、一度も口を挟まなかった。
「……真柴が」
ようやく出た声は、かすれていた。
「あたくしに、字を教えてくれたのは、真柴よ。お人形の首が取れたときも、膠で直してくれた。お母様に叱られて泣いていると、こっそり金平糖をくれたわ」
大きな目に、みるみる涙が溜まった。
「一度だけ、本当に怖い顔をされたことがあるの。蔵の牡丹のお茶碗に、触ろうとしたとき。小さかったから、ただ、大事なお品だからだと思っていた」
牡丹の、蓋付きの茶碗。
宇佐美先生が、最後に口をつけた茶碗だった。
私は、百合絵様の手を握った。百合絵様は、その手を、強く握り返した。
「お兄様は、ご存じなの」
「鎌倉で、一緒に見ました」
百合絵様は、唇を噛んだ。
「だから、帰りの汽車で、あんなお顔をなさっていたのね」
しばらく、二人とも黙っていた。窓の外で、虫が鳴いていた。
「明日、ミモザへ行くのね」
「真柴さんが、誰と、何を話すのか。この目で見たいのです」
「だったら、あたくしが連れていくわ」
百合絵様は、手の甲で、ぐいと涙を拭いた。
「ミモザには、お蘭がいるもの。あたくしの、顔見知りの女給よ」
翌朝、私は、厨房で冬馬様に話した。
冬馬様は、長いこと黙っていた。
「私は、行けない」
やがて、低い声で言った。
「宗介は、私の背中なら、百歩先からでも見分ける。……篠原を連れていけ。無理は、するな」
それから、作業台の上の私の手に、自分の手を、一瞬だけ重ねた。
*
八月二十一日の午後、私は、生まれて初めて洋装をした。
百合絵様の水色のワンピースは、私には長すぎて、百合絵様が夜なべで裾を詰めてくれた。釣鐘型の帽子を目深にかぶると、鏡の中に、知らない女が立っていた。
百合絵様は、浅草の衣装屋で面白半分に買ったという、断髪のかつらをかぶった。耳の下でまっすぐ切り揃えた黒髪に、真紅の口紅。
「麗子様みたいでしょう」
篠原さんは、帝大の友人に借りたという背広を着ていた。袖が長すぎて、指先しか出ていなかった。
屋敷を出るときは、三人とも着物だった。風呂敷に洋服を包み、神田の古書店街の、篠原さんの下宿仲間の部屋で着替えた。
市電の中で、篠原さんは、しきりに襟元を引っぱっていた。
「奥様、僕は、どういう役回りでしょうか」
「お二人の、兄さんということにしておいて」
百合絵様が、すまして答えた。篠原さんの耳が、赤くなった。
カフェー・ミモザの硝子戸を押すと、蓄音機の音と、珈琲の匂いが流れてきた。
白いエプロンの女給が、こちらを見て、二度、瞬きをした。
「あら……ゆりちゃん? その頭、どうしたのさ」
お蘭さんだった。百合絵様が、唇に指を当てる。お蘭さんは、それだけで何もかも呑みこんだ顔をして、私たちを、奥の棕櫚の鉢植えの陰の席に案内してくれた。
百合絵様が、ソーダ水を三つ頼んだ。緑色の泡が、細長いコップの中で、絶え間なく弾けている。
鉢植えの葉の隙間から、店のいちばん奥の席が見えた。
灰色の背広。銀の混じった、きっちり七三の髪。
休みの日でも、真柴さんは、真柴さんの格好をしていた。
向かいに、二人の男が座っていた。痩せた白髪の人と、口髭の太った人。記者倶楽部の長机の向こうで、腕を組んでいた顔だった。久遠寺の、分家の御当主たち。
その隣に、もう一人。鼈甲縁の眼鏡に、黒い背広。膝の上に、書類鞄を載せている。
「あれは、村瀬さんっていう弁護士さん」
お蘭さんが、水のコップを置きながら、囁いた。
「前は、将臣様と、よく来てたのよ。将臣様がああなってからは、あの家令さんと」
お蘭さんは、盆を持って、奥の席へ行った。
空いた皿を下げ、灰皿を替え、水を注ぎ足す。そのあいだ、ゆっくり、ゆっくりと手を動かしていた。
戻ってくると、私たちの卓の水を注ぎながら、唇だけで言った。
「親族会議、って。それから、隠居。宗秩寮」
コップの水が、縁まで満ちた。
「九月一日、って。二度、言ってたわ。将臣様のお席は、もう要りません、とも」
真柴さんが、背広の内隠しに手を入れた。
厚みのある封筒が、二つ出てきた。卓の下で、分家の御当主たちの膝の上へ、一つずつ。二人とも、目を合わせずに、それを懐へしまった。
それから、もう一通。
宛名のない、白い、細長い封筒だった。厚みは、ほとんどない。
真柴さんは、それを、両手で、村瀬という弁護士に差し出した。弁護士は、同じように両手で受け取り、書類鞄の、いちばん奥に入れた。
真柴さんの左手が、眉に上がった。一度、なぞる。
そして、目尻に深い皺を寄せて、何か言った。分家の二人が、そろって頭を下げた。
家令に、分家の当主が、頭を下げていた。
「……あの御二方は、親族会の顔ぶれです」
篠原さんが、ソーダ水のコップを握ったまま、ほとんど声を出さずに言った。
「御家督のことを決めるとき、親族会に名を連ねる方々です。将臣様も、そのお一人でした」
将臣様のお席は、もう要りません。
欠けた席の分は、もう、ほかで足りている。そういう意味だった。
百合絵様のストローの先で、緑色の泡が、音もなく消えていった。
*
先に店を出たのは、私たちだった。
篠原さんが勘定を済ませ、百合絵様が、お蘭さんの手に何か握らせた。
硝子戸を押して、銀座の通りへ出る。午後の日差しが、帽子のつばの下まで、白く照り返してきた。
私は、一度だけ、振り返った。
金文字で「ミモザ」と書かれた硝子戸の向こう。棕櫚の鉢植えの、さらに奥。
真柴さんが、こちらを見ていた。
椅子の上で、体ごと、ゆっくりと振り返って。眼鏡の奥の目が、硝子越しに、洋装の私の上で止まっていた。
笑っては、いなかった。
気づかれたのか、わからない。
百合絵様に袖を引かれて、私は、人混みの中へ紛れた。背中に、あの目がまだ貼りついている気がした。
コメント
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読み終わりました……第63話「カフェー・ミモザ」、胸がぎゅっとなりました。百合絵様が「あたくしが連れていくわ」って涙を拭いて言ったところで、もう完全にやられました。真柴さんの瞳の奥であれだけ静かに何かが決まっていく感じ、すごく怖いのに目が離せなかったです。ソーダ水の泡が消えていく描写も、あの店の空気そのものみたいで……冬馬様が手を重ねた一瞬の温かさが、かえって切なかったです。次が本当に気になります、続きをずっと待っています🌷