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「そうねぇ、物語で読んだくらいかしら?……唐猫《からねこ》の、いと小さく、をかしげなるを……」
「ああ、源氏物語、若菜の巻《かん》ですね」
すかさず、守近が、徳子《なりこ》に合いの手を入れる。
「確かに、猫というものは、小さくて、愛らしいそうですが……」
この歯切れの悪い、守近の物言いに、
「ええーーー!もしかして、守近様も、猫ちゃん、知らないんですかぁ?!」
沙奈《さな》が、驚きの声を挙げた。
「うーん、そうだねぇ。どちらかと言えば、知らない……かなぁ」
どちらも、そちらもないだろう。猫を見たことがない、知らないとは、どういう話だ。
長良《ながら》も、女房達も、開いた口がふさがらない。
しかし。思えば。
徳子は、そもそも上流貴族の姫。滅多なことで、座所《いま》どころか、屋敷の外に出ることはない。
外出といえば、年に数回の、祭り見物ぐらいなもので、それも、牛車《くるま》に込もってなのだから、世の中の事など、知るはずもなく、猫を見たことがないと言うのも頷ける。
だが、守近は、少なくとも、出仕ごとで、外の世界に触れている。ともすれば、親しく通うお方が、猫を飼っていてもおかしくはないのだけれど。
そういえば、こちらも、移動は、常に牛車《くるま》。何事かの語らいも、牛車《くるま》の中で済ます事が多くて──。
やはり、二人の言うことは、本当なのだろう。
幸か不幸か、守近の屋敷には、猫がいない。
ネズミ避けとして飼う屋敷も少なくないが、守近の屋敷では、古参の女房、武蔵野が、ネズミ退治の道具を用意しているようで、猫の役目などないとばかりに飼っていないのだ。
「うーん。仕方ないですね。沙奈が、猫ちゃんのこと、教えてさしあげます!」
真顔で文机に向かうと、沙奈は、何かを書き始めた。
暫く後、幼子の声が挙がる。
「できました!これが、猫ちゃんですっ!」
得意気に差し出す紙には……。
一同は、固まりきる。そうして、瞬時の内に、笑いの渦に包まれた。
女房達は、これは、たまらんとばかりに、体をよじり、長良《ながら》ときたら、床《ゆか》に転がりこんでの大笑い。
書かれていたモノは、のたくった文字もどき以上の表し難き、えたいのしれない絵《もの》だった。
「ああ、守近様、猫とは、このように、恐ろしきものなのですか?」
「さて、どうでしょう。でも、徳子《なりこ》姫?よくよく見ると、愛らしい異形のモノではないですか。しかし、今にも、襲ってきそうな勢いですね」
ひっと、徳子は、声を挙げると、守近にしがみつく。
「ああ、徳子姫。ご安心を。何があっても、この守近がお守り致します」
何時もならば、この二人の姿に、女房達は、なんと絵巻物から抜け出したような麗しさよと、憧れの吐息をつくのだが、今回ばかりは調子が狂った。
仮にも主と、分かってはいるが、二人の掛け合いが女房達の笑いを更に誘って、腹を抱える如くの爆笑は終わりを見せない。
「ところで、沙奈《さな》や、その弦《つる》は、何だい?」
守近が問いただす。
「あーこれは、おひげですよ。猫ちゃんのおひげは、ぴんと伸びてるんです」
「ほお、左右に伸びているのか。では、その、炎はいったい、どういうことだ?」
「え?えー!守近様、これは、しっぽですよっ!猫ちゃんのしっぽは、丸くて、ふわふわで、ぴんと立ってるんです」
「ぴんと、は、ひげだろう?」
「うーん、そうじゃなくってぇ」
答える沙奈は、どうも噛み合わないと、顔をしかめる。
「……わかりました。沙奈が、猫ちゃんをお見せします!」
──それから、一時《にじかん》ほどの後《のち》、長良《ながら》を連れて、飛びだして行った沙奈《さな》が戻ってきた。
帰りが遅いと、皆が心配し始めた頃、麻袋を抱えた長良を従え、沙奈は得意顔で現れた。
「はい!猫ちゃん連れて来ましたよっ!」
長良の腕の中にある麻袋が、モゾモゾと動いている。中に生き物がいることは見てとれたが、沙奈の言うところの猫ちゃんが入れられているのだろうか。
一同が、呆気にとられるなか、沙奈はお構いなしで、「長良兄様《ながらあにさま》!」と促した。
言われて、長良は麻袋を置く、つもりが、入れられているモノの勢いに押されて放ってしまう。
きゃあっと、女房達の挙げる悲鳴の中、麻袋は、モゾモゾ、ゴロゴロ転がり続ける。中に入れられているのであろう猫ちゃんが、出口を求めて、うごめいているようだ。
ミャァー、フゥー、と、不機嫌な獣の鳴き声が響き渡り、房《へや》のかしましさは増していく。
初めて耳にする、獣の声の勢いに、徳子《なりこ》は、守近にしがみついたまま。守近も、驚きから腰が引けていた。
「さ、沙奈や、それを、何とかしなさい!」
守近の悲鳴にも近い命《めい》に答えたのは……。
ニャァーンという、甘ったるい鳴き声だった。
「まあ!何と愛らしい!これが、猫というものなのですね?」
「いや、全く。徳子姫に匹敵する愛らしさ」
守近と徳子の視線の先では、白に黒のぶち柄猫が、気だるそうに体を伸ばし、大きな欠伸を繰り返していた。
「あっ、猫ちゃん、目を回したようですね。長良兄様が、乱暴に扱うからですよ!」
「沙奈!お前が、袋に入れろって言ったからだろ?!」
兄妹《きょうだい》の言い争いを諌《いさ》めるかのように、猫は、再び、ニャァーンと鳴いた。