こうして、独演会は大盛況の内に幕を閉じた。
岩崎へ向けられた拍手はなかなか鳴りやまず、そんな中、貴賓席のお偉方は、お忍びの宮様を庇う様に取り囲み、静かに退席して行った。
観客は、一層大きな拍手で見送り事を行い、独演会は無事に修了したのだった。
「ああ、すまないな。月子も疲れているだろう?」
神田旭町の家に戻り、岩崎は自室で横になってくつろいでいる。
月子は、茶を文机へ置いた。
岩崎は有無を言わさず月子だけを連れて逃げるかのように劇場を後にしていた。
裏では、打ち上げをしようと差し入れの祝い酒を振る舞う準備が行われていたが、岩崎は、それも振り切り、月子と帰宅したのだった。
なんとなく、岩崎の態度がおかしいと月子は感じていたが、黙って従い一緒に帰った。
そして──。着替えを終えた岩崎は、大の字になり寝そべっている。
その姿に、打ち上げまで、気力も体力も持たなかったのだろうと、月子は思いつつ、夕餉は何か精がつくものをと思う。
「京介さん。お疲れ様でした。お茶をどうぞ……」
すっかりバテてしまったのか、岩崎は横になったままだった。
「あっ、お布団敷きましょうか?ゆっくり休んでください」
畳にごろ寝するよりよかろうと、月子なりに気を遣う。
「いや、布団までは……このままでいい。月子も休みなさい……」
静かに言う岩崎に、月子はやはり何かが違うと感じた。案の定、
「……月子……。どうして……」
そこまで言って、岩崎は起き上がると、気まずそうに月子を見る。
「どうして、浮かぬ顔だった?」
「え?」
少し切なそうに言う岩崎に月子は息を飲んだ。
ひょっとして……。
岩崎は気がついていたのだ。月子の胸の内を分かって、だから、アンコールの時にわざわざ、桟敷席にやって来た……。
「あ、あの、京介さん?」
多分、そうなのだろう。バツが悪くなりつつも、月子は、何事も無い素振りを見せる。
「……演奏中、思い詰めているように見えた。義姉上《あねうえ》が居なくなり、一人きりが寂しくなった。そんなことではないだろう?」
岩崎に、劇場での真意を見透かされていたことに月子は恥ずかしくなり、さっと視線をそらした。
「言ってみなさい。私は言われないと分からないのだよ。月子、正直に言ってくれ」
岩崎が、真顔で迫って来る。
しかし、自分の不甲斐なさに落ち込んでいたのだと、月子は言いづらい。
芳子のように来賓と挨拶を交わし、もてなす訳でもなく、隅っこに一人で座っていることしか出来なかった。妻の役目を果たせているのか落ち込んでいたと言い出せず、月子は、膝の上でギュッと両手を拳にした。
できなかった自身に悔しさを覚え、月子はだんまりを決めていた。
「月子!」
岩崎が、きつい口調で名前を呼ぶ。
珍しく気が立っている様なその口振りに、月子はびくりと肩を揺らすが、次の瞬間、岩崎の懐に抱き止められていた。
「……一人で抱え込んでいるのだな?私達は、もう夫婦と言って良いのだぞ?……劇場で、何があったんだ?」
核心を突かれる言葉に、月子は観念した。やはり、岩崎は分かっていたのだ。
月子の異変を感じて、桟敷席で演奏し、打ち上げにも参加しなかったのだ。
岩崎は、それ以上は何も言わず、月子を優しく抱き締めている。
「……わ、私は、何もできなくて……。芳子様の様に、できなくて……」
もう誤魔化し切れないと、月子は岩崎の着物の袷をきゅっと握りしめ、たどたどしく、劇場で不甲斐なさにさいなまれていたのだと白状した。
「……義姉上は、義姉上だろ?月子は、月子だ。私は月子が側に居てくれるから、頑張れる」
「で、でも、でも、私は何も出来なくて……。そんなんじゃあ、男爵家の人間とは言えないです……。京介さんの妻とも言えないです……」
言えなかった事を吐き出し、月子は、だだっ子の様に岩崎の胸元で首を振る。
月子の体に回される岩崎の腕に力がこもった。
「……そんなこと。気にするなと言うのは、無理なのかも知れないが、男爵家と言っても、私はこんな借家にしか住めない立場だよ……」
「悪かったなぁ!こんな借家でっ!!黙って聞いてりゃあ、なんでぇ!!」
怒鳴り声と共に、襖が、すぱーんと開かれた。
「に、二代目?!」
「なぁーにが、二代目だっ!!こっちの誘い断りやがって!おかしいと思ったら、昼間っから、ちちくりあってっ!!なんでぇ!!」
ほんのり、顔が赤く染まった二代目が、いきり立っている。
「ち、ちちくりあってなんかいないだろうがっ!抱き合っているだけだぞっ!!」
いつもの事とはいえ、やはり、強引な来訪には岩崎も驚くばかりで、余計な事を口走っている。
「うわっ、抱き合ってるって、言い切るか!」
こんちくしょうめ、と、二代目は更に食ってかかってくる。
「中村さん、岩崎先生は、いつもこうなんですか?」
「戸田さん、岩崎先生、学校と違います」
怒りまくる二代目の後ろから、中村、戸田、そして、山上まで現れた。
「いや、ちょっとまて!何、勝手に人の家に!!」
「うっせぇーー!!大家だぞぉ!!」
二代目が、何時もの様に吠えた。
「あーー!岩崎。皆、打ち上げの祝い酒で酔っぱらってんだよっ!というか!月子ちゃん!布団敷いてくれ!」
中村が、叫ぶが、
「おぉ!!髭太郎だぞっ!!中村っ!!ちゅちゅしてるぞ!!」
何者かのヤジが追いかけて来た。
「なっ?!なんだ?!中村?!」
岩崎も、何が起こっているのかと驚きつつ、現れた一行を凝視した。
「あーー!また、くっついてるーー!おう!こうよ、いつもだぜぇ!」
勢いづいたヤジが、再び飛んで来た。
「……頼む、なんとかしてくれ」
「中村、なんとかって、いったい……」
「えっ?!お咲ちゃん?!京介さん!お、お咲ちゃんがっ!」
月子が、中村に背負われているお咲を目ざとく見つけた。
「月子ちゃん!いい加減岩崎から離れて、取りあえず布団敷いてくれ!」
中村の泣き出しそうな悲痛な叫びに、岩崎と月子は、抱き合ったままだったと、慌てて体を離した。
「けっ!なんでぇ!!いつまでも、ちちくりあってっ!!」
出来上がっている二代目が、まだ、ぐずぐずと言い、
「戸田さん?岩崎先生、ちちくりあってたんですか?」
「山上君、まあ、自宅だからねぇーー」
続いて、戸田も山上も、訳が分からない状態で笑い、場は混乱仕切る。
「岩崎、月子ちゃん、こいつらは、いいから。とにかく、お咲!お咲だっ!!」
「は、はい。中村さん、お布団ですね!こちらへ!」
月子は腰を上げ、続き間の襖を開けると、お咲の布団の用意を始めた。
「あーー、お咲のやつ、間違って、祝い酒飲んじまったみたいなんだっ!!気づいたら、できあがってた……」
「え?!お咲ちゃん!お酒を?!」
布団を用意しながら、月子が驚きの声を上げる。
「すまない!皆、油断してたからっ!」
中村は、打ち上げでお咲がいつの間にか酒を飲み、酔っぱらってしまったのだと事情を説明するが、とにかく、知らぬ間の出来事だった為に、お咲がどれ程酒を飲んだのかは分からないと付け加えてくれた。
真っ赤な顔で、いっぱしに、くだをまくお咲の姿を見ては、岩崎も月子も、大丈夫なのかと心配するしかなく、オロオロするばかりで、お咲が飛ばし続けるヤジに黙りこむしかなかった。
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