テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
733
きなこもち
183
#サレ妻
都築七美
1,141
俊介が家を飛び出した夜、結局、玄関の扉が開くことはなかった。
一花はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
何度スマートフォンを確認しても、俊介からの連絡はない。
静まり返った部屋の中で、俊介がいないことだけがやけにはっきりと感じられた。
昨夜までここにいたはずなのに、今はその痕跡さえ遠く思える。
『……化け物みたいな顔で、俺の前に立つな……!』
一花はぎゅっと目を閉じた。
言った直後、俊介が後悔していたことくらい分かっている。
それでも、一度突き刺さった言葉は簡単には抜けてくれなかった。
洗面所に置かれた軟膏へ手を伸ばしかけて、やめる。
今日はまだ、自分の顔に触れる気になれなかった。
けれど、悠真には会いに行きたい。
一花は最低限の支度だけを済ませ、家を出た。
病院へ着くと、一花はいつものように悠真の病室へ向かった。
見慣れた廊下。聞き慣れた足音と、医療機器の電子音。
何度も通った場所のはずなのに、今日はすれ違う人の視線まで妙に気になった。
誰も自分を見ていない。
そう思おうとしても、少し顔を向けられるだけで、傷を見られているような気がする。
俯き気味に歩いていた、その時だった。
廊下脇の大きな窓に、ふいに自分の姿が映った。
足が止まる。
ガラスに映る火傷痕を見た瞬間、俊介の声が鮮明に蘇った。
『化け物みたいな顔で、俺の前に立つな……!』
「……っ」
胸の奥が強く締めつけられる。
「……は、っ……」
苦しい。
周囲の音が遠のいていく。
心臓だけがひどく速く打ち、指先まで冷たくなっていくのが分かった。
「大丈夫ですか?」
誰かに声をかけられたが、返事をする余裕もなかった。
一花はその場にしゃがみ込み、胸元を押さえる。
息を吸っているはずなのに、肺の奥まで入ってこない。
喉が塞がれたように苦しく、浅い呼吸ばかりが何度も繰り返される。
「……っ、は……っ……」
苦しい。
落ち着かなければと思うほど、呼吸はますます速くなっていく。
「桜井さん?」
別の声が聞こえた。
足音が近づき、一花の前に人影が膝をつく。
「桜井さん、私の声、聞こえますか?」
神崎だった。
一花は何とか頷く。
「大丈夫です。無理に吸わなくていいですよ」
落ち着いた声が、混乱した意識の中へ届く。
「吐くことだけ考えてください。ゆっくりでいいです」
神崎の声に合わせるように、一花は細く息を吐いた。
うまくできなくても急かされることはない。
ただ、いつもの落ち着いたその声で、何度も「大丈夫です」と繰り返してくれる。
しばらくすると、乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いていった。
神崎に連れられ、一花は診察室の椅子に座っていた。
手渡された水を少しずつ口に含む。
まだ胸の奥には苦しさが残っていたが、先ほどのように息を吸うことさえ怖くなるほどではない。
「少し落ち着きましたか?」
「……はい」
「よかった」
神崎は一花の顔色を確かめるように見てから、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「……何かありましたか?」
一花は答えず、手の中のカップへ視線を落とした。
透明な水面が、指先の震えに合わせてかすかに揺れている。
「……大丈夫です」
気づけば、いつものようにそう答えていた。
神崎はそれ以上問いかけず、ただ静かに待っていた。
無理に話さなくてもいいのだと、その沈黙が伝えてくる。
だからこそ、押し込めていたものが少しずつ胸の奥からせり上がってきた。
「本当に……大丈夫なので」
「そうですか」
神崎は否定も追及もしなかった。
「では、今はそれで構いません」
一花は思わず顔を上げる。
「ただ、また苦しくなった時は、我慢しないでください」
穏やかな声だった。
「身体のことでも、それ以外のことでも」
その一言で、ぎりぎりのところで張りつめていたものが緩んだ。
一花は唇を噛む。
「……夫に」
零れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
神崎は何も言わず、一花の続きを待っている。
「夫に……化け物って、言われました」
口にした途端、昨夜の光景が鮮明に蘇り、堪えていた涙が滲んだ。
「私の顔を見て……『化け物みたいな顔で、俺の前に立つな』って」
神崎の表情がわずかに強張る。
一花はその顔を見ることができず、俯いたまま言葉を続けた。
「ずっと、私の傷を見られなかったんです。目が合っても、すぐ逸らされて……」
「昨日も、それで喧嘩になって。そのまま出ていって、帰ってこなくて……」
話すほどに、声が掠れていく。
「私……分かってたんです。前と同じ顔じゃないことくらい」
頬を涙が伝った。
「でも、俊介だけは……」
その先が続かなかった。
喉の奥が詰まり、一花は俯いたまま目を閉じる。
一番近くにいた人だった。
長い時間を一緒に過ごし、これからも隣にいるのだと思っていた人だった。
他の誰に何を言われても、俊介だけは本当の自分を見てくれる。
どこかで、そう信じていた。
「私が、こんな顔になったから……」
「違います」
迷いのない声に、一花は顔を上げた。
コメント
1件
第45話、読みました。俊介の言葉が一花に深く突き刺さったまま、彼女が一人で病院へ向かう朝の描写が胸に迫りました。窓に映る自分の姿に「化け物」という言葉がフラッシュバックし、呼吸ができなくなる場面では、私まで息が詰まりそうになりました。そんな中で神崎さんの「吐くことだけ考えて」「我慢しなくていい」という静かな寄り添いがとても優しくて…。一花が「夫に化け物って言われました」と震えながら打ち明けるところは、本当に切なかったです。続きが気になります。