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3回検査してみたところ、3回とも妊娠検査薬は陽性の反応を示した。
梨沙が子供を身ごもっているのはもはや間違いない事実だった。
(そんなバカな!ありえない!)
これは確率の問題なんかじゃない。
科学的な問題だ。
2年間家から出ておらず、男性との接触がないのに妊娠などできるはずがない。
一体、自分の身体に何が起きているというのか。
口がカラカラに乾いて頭が回らない。
思考が停止する。
(……まさか自分が気づかない間に?)
いや、それはありえないはずだ。
デートドラッグを悪用した恐ろしい事件の話は世事に疎い梨沙でも知っている。
だが、引きこもりの2年間、昏睡したことは一度もないし、襲われていたことに全く気がつかないというのも考えづらい気がする。
そんな恐ろしいことがあったら身体のどこかに何かしらの違和感や兆候が出るはずではないか。
この2年、梨沙はすこぶる健康だった。
無自覚なだけというのも考えづらい。
だとしたら、今、梨沙の身に降りかかっているこの異常な状況はどう説明がつくのか。
誰かに相談したかった。
でも、相談できる相手が一人も思い浮かばない。
友達と呼び合ってた人達と連絡を取り合わなくなったのはいつからだろう。
社会人になってだんだん疎遠になっていった。
たまに連絡を取り合ってお茶くらいはしても、お互い表面的なことだけ取り繕うように話していた気がする。
だが、決定的に離れたのは2年前からだ。
みんなが離れていったのではない。
関わりを絶ったのは梨沙の方からだ。
誰の助けもあてにはできない。
だったら自分で解決するしかない。
でも、一人でいくら考えても、妊娠の原因は何も思いつかなかった。
聖母マリアは処女のままイエス・キリストを受胎したといわれている。
彼女も実は今の梨沙のような気持ちだったのだろうか。
梨沙は、命を授かった奇跡など微塵も感じなかった。
心を占めるのはただ戸惑いと恐怖だけだった。
梨沙はフリーになってはじめて仕事の納期を延ばしてもらった。
とてもじゃないが仕事が手につく精神状態ではなかった。
クライアントは笑って許してくれたが、こんなことが続けば遅かれ早かれ仕事を回してもらえなくなる。
なんとか早く状況を整理しないと。
そのためには、まず病院にいってちゃんと検査をしてもらうべきなのだ。
そう頭ではわかっていた。
けど……。
(……今日はもう閉まってるか)
梨沙は病院に行かなくてすむ言い訳を探している自分に気がついた。
病院で決定的な事実をつきつけられるのが怖いのか、家から外に出るのが怖いのか。
どちらにせよ梨沙は病院に行きたくなかった。
精神的な引きこもりではないと自分では思っていた。
必要があれば外出できると自分を疑っていなかった。
だが、いざ必要に迫られると、外にでるのに臆病になっている自分がいる。
行かなければいけないとわかっているのに足がどうにも表にむかない。
決して認めたくはないが梨沙の心はどこか歯車が狂っているのかもしれない……おそらく、あの時から。
なんの解決策も思い浮かばぬまま、ただ時間だけが過ぎていった。
夜が朝になり日が上りまた沈んでいった。
梨沙はじっと足を抱え込んでリビングのソファに座っていた。
その間、何度も緊急車両が近所を走り抜ける音を聞いた。
本当に最近、出動する救急車やパトカーの数が多い。
近隣で大きな事件でも起きているのだろうか。
ネットで調べてみようか。
(……ダメだ、また現実逃避しようとしている)
お腹の子のことを真剣に考えないといけないのに、思考はどこか別のところにいこういこうとする。
現実を直視しなくて済むならそれがいいと思っている自分がいる。
(どうにかしないと。誰も助けてくれないんだから)
梨沙は自分を奮い立たせようとした。
この数年、30歳も見えてきて、梨沙は人並みに子供を望んではいた。
だが、それはこんな形ではない。
望まぬ妊娠であることは間違いない。
父親も不明なら、なぜ妊娠しているのかも謎だ。
だとしたら、取るべき選択肢は……。
梨沙は思い立って、オンライン診療のサービスにログインした。
しばらくして、原田先生の見知った顔が画面に映し出された。
「綿貫さん、こんばんは」
「……先生のいうとおりでした。検査したら陽性で」
すると、原田先生の顔が輝いた。
「本当に?おめでとう!よかったわね」
だが、梨沙の様子がおかしいことに気がついたのか、原田先生はすぐに喜びの感情を引っ込めた。
「何か問題があるの?」
「あの……お腹の子をおろす薬ってあるんでしょうか?」
梨沙の言葉に原田先生の表情は一瞬で凍りついた。
あまりに性急に事を進めて説明を省きすぎたとは梨沙も思った。
だが、冷静さを失った今の梨沙の脳では、これが限界だった。
それに梨沙はもともと人とのコミュニケーションが苦手で説明もうまくない。
どうしても頭がこんがらがって、大事なことをはしょってしまったり余計なことを言ってしまったりする。
だから梨沙の家系は総じて口数が少ない人が多いのかもしれない。
「何があったのかはわからないけど、まずは病院で検査をして、医師とよく相談して決めた方がいいわ」
原田先生は冷静に梨沙を諭した。
「でも、産むなんて、おかしいんです。間違ってます」
もう頭がこんがらがり始めている。
梨沙の頭の中では理路整然と話しているつもりなのに、口から出てくる言葉は、梨沙が言いたいことを5%も説明してくれていない。
原田先生は明らかに不愉快そうに顔を歪めた。
「綿貫さん。それは少し無責任な考え方じゃないかしら。例え望まない妊娠だったとしても、子供には何の罪もないのよ」
梨沙の読み通り原田先生は子供を持つお母さんなのだろう。
生まれてくる子供に不義理な母親を許せないのだ。
こんなはずじゃなかったのに……。
ありえない妊娠について打ち明けて解決する方法を相談したかっただけなのに。
共感を得られるどころか責められている。
「母親としての自覚」「責任感」
そういう言葉が断片的に聞こえてきた。
梨沙の弱った心に原田先生の言葉は刃となって切りつけてきた。
もう耳を塞いでしまいたかった。
「あら。お相手の方もいるなら、参加してもらってもいいのよ」
「……え?」
最初、梨沙は原田先生が何を言っているのかわからなかった。
だが、目を凝らしていると、画面の背景にかけているビデオフィルターがジラジラと揺れ動いて梨沙の家の様子が映ってしまっていた。
普段から梨沙はオンラインミーティングの時、必ず背景にビデオフィルターをかけておく。
あえて自宅を映す必要もないと思ってオフィスっぽい画像を設定しているのだが、モノを動かしたりするとフィルターが外れてしまう時がある。
原田先生は梨沙の画面のフィルターが外れかけているので子供の父親が近くにいるのだろうと言ったのだ。
だが、梨沙の家にそんな人間はいない。
梨沙はハッと振り返って気配を探った。
キッチンの方から食器が擦れるような音がした。
「……綿貫さん?」
不思議そうにしている原田先生を残して梨沙はオンラインミーティングの通話を切った。
たしかに音が聞こえた。
梨沙は立ち上がり恐る恐るキッチンに向かった。
キッチンに足を踏み入れると、おかしな光景が目に飛び込んできた。
コーヒーメイカーになみなみとコーヒーが入ったマグカップが置かれていて湯気があがっている。
まるでたった今淹れたばかりのように……。
もちろん梨沙が淹れたものではない。
……だったら一体誰が?
梨沙は周囲を見回した。
誰の気配もない。音も聞こえない。
梨沙は湯気が立つコーヒーカップを見つめた。
まるで自分の存在をアピールするかのように注がれたコーヒー。
この家に梨沙以外の人間がいるとでもいうのか?
家が急に広く感じられた。
その時、梨沙は、身体の奥に妙な感覚を覚えた。
……トクン
脈動のような振動。
まるで胎内に宿るものが梨沙に自分の存在を知らせているかのようだった。
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