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日が落ちかけ、夕焼け色に染まった海辺を二人で言葉もなく歩いていく。観光のピークも過ぎているからか、浜辺にはちらほらとしか人がおらず、ただ何かを洗い流そうとするかのような波の音だけが寂しげに響いている。結局互いに言葉を口にすることもないまま、長い時間をかけてゆっくりと進む。けれど、いつまでもこうしている訳にはいかない。
「いつか、」
柔らかな橙に染まった浜辺に腰を下ろしながら意を決して些か唐突に切り出した。神聖ローマはその体の大きさに戸惑うようにして、ゆっくりと隣へと腰を下ろす。それでもその目はこちらから外れることはなく、言葉の続きを待っている。
「いつか、神聖ローマは、俺が海みたいって言ったよね。あの時は何が言いたいのかわからなくて、でも聞いても教えてくれなかったっけ。今だったらお前は教えてくれる?」
横を向くと、夕焼けのせいか、それとも他のなにかのせいか神聖ローマの顔は真っ赤に染まっていた。
「…覚えていたのか。そんなこと」
「海を見る度、思い出してたんだ。お前がいなくなってからは、もう理由も聞けないと思ったら、余計に考えちゃってさ」
「お前は…俺が追いかけると逃げるくせに、俺が逃げると追いかけてきて…変な奴だった」
「ヴェ―…神聖ローマの顔が怖かったんだよー」
それはそうかもしれないが、と少し不服そうに神聖ローマは目をそらして、ふいと横を向いた。その姿は常日頃厳しくていかめしい顔をしているルートヴィッヒと同じはずなのに、なんだか年端のいかない少年のようで少し可愛らしかった。しかしその表情はすぐに消えてしまって、冷静な顔に戻ると彼はゆっくりと重そうに口を開いた。
「そう、俺が追いかけると逃げるくせに、俺が逃げると追いかけてくる…それが波みたいだと思ったんだ。寄せては返す静かな波。時折激しく大きく荒れることがあっても、その大きな腕で全てを包み込む優しさを持つ海。俺の目にはお前はそのように映っていた」
思っていたよりずっと激しい愛の告白だった。てっきり、水の都という自分の二つ名からそんな風に言っていたのだと思っていた。
「じゃあ、ルートが初めて見た海が何か違うと思ったって言ったのは」
その言葉に神聖ローマは苦笑する。
「そうだ。俺はすべての記憶をもって消滅したが、体には残っていたんだろうな。だからあいつはずっと無意識に自分に欠けたものを探していたんだろう。探している理由も何を探しているのかもわからずに」
それほど強い思いだったのだと暗に示され、フェリシアーノは顔を赤らめ、思わず、右腕で彼の体を引き寄せた。
「俺はずっとお前を待ってたよ。いっぱいお菓子作って待ってるって約束だったでしょ。でも待ってるだけじゃダメだった。お前を探しに行かなきゃいけなかった」
神聖ローマは首を振った。
「お前は、正しかった。お前は、探しに来なくてよかったんだ…お前はいつでも正しかったな。ローマ帝国は大きくなりすぎて滅びたとお前は言ったが、その通りだった。神聖ローマは多くを求めすぎた。そして、それが手に入るものだと信じ、持っていたものすら何もかもを喪った」
なんて、愚かだったんだろうな。そういう神聖ローマの顔は穏やかだった。
「俺は、世界に選ばれなかった。だが、お前が消えずに生きてくれてよかった。お前は、選ばれたんだ」
そこで神聖ローマは急に口を閉ざした。何かを迷うかのようにその唇がわずかに震える。しかし、こちらが何かを訪ねる前にすでに神聖ローマは言葉を継いだ。
「……なあ、お前は、この体の持ち主彼のことが好きか?」
昔と同じように険しい顔でこちらをじっと見つめてくる顔はもう怖くはなかった。何かを、抑えようとしているだけでと分かっているから。
答えを出せと。そして、答えを間違えるなと、神聖ローマの厳しい瞳が言葉なく告げる。
ずっと、その結論を出すのが怖くて、出すことを拒んでいた答えを口にしろと、彼は求めている。
「…俺はルートが好きだよ…。今までもずっと、これからだってね」
半分嘘で半分本当の答え。
ルートのことは大好きだ。それは、偽りのない答えであると自信をもって言える。けれど、この答えはお前の存在を否定してしまうから、ずっと出したくなかった。
ほんとは、俺もお前のことが900年代からずっと、好きだったよ。
でも。誰にも、この気持ちを伝えることはもう許されない。
お前はもう、どこにもいないから。
俺たちは進まなければいけないから。
世界の地図には、お前がいたという空白すら残ってないんだ。
何もなかったみたいに、違う国の名前が書いてある。
ルートを愛してる。
神聖ローマの代わりじゃなく、彼が好きだ。
今、こうして神聖ローマと話して分かった。
神聖ローマは神聖ローマで、ルートはルートだ。
二人は、違う。
だから、なんでルートのことが好きになったかなんて考えなくていい。
理由なんて必要ない。
ただ、ルートが好き。ルートの傍にいたい。
それでいい。
やや間があって、神聖ローマは一度何かを振りきろうとするかのように首を振り、目を閉じた。そして、見たことがないほど、優しい顔で微笑んだ。
「…その答えが聞けてよかった。俺はもう消える。この体の持ち主ドイツの答えは、直接彼の口から聞いてくれ」
「もう、行くんだね…神聖…ローマ」
「ああ。もう、こうやって現れることもないだろう。さよなら、イタリア。もう…待っているのはやめろ。お菓子は彼のために作ってやるんだ」
知ってたんだ、俺がまだお菓子を作ってお前を待ってること。作るのをやめたら、自分の中からお前を消してしまうような気がしていたから。
「うん、わかってる……………。さよなら、神聖ローマ。会えて…よかった」
二人とも、言いたい言葉を隠したまま、ただ別れを告げる。
二度目のお別れは、一度目よりもあっさりとしていた。でも、もう、二度と会えない。これは最期のお別れだ。
「俺もだ…あぁ、そうだ。最期にあいつのところにも行ってやるとするか」
「…うん、それがいいよ」
沈黙が訪れ、海の音だけが静かに響く。寄せては、返し。何度も近づいては遠ざかっていく。
「おやすみ、神聖ローマ」
「おやすみ、イタリア。いい夢を」
神聖ローマが満足そうに一つ頷くと、彼の体は動かなくなった。倒れて来た彼の体を膝に受け止める。
重くて、固い、彼の体だった。
日が沈んで来た頃、閉じたままだった瞼が僅かに震えた。
「…フェリシアーノ?俺は…」
「よかったー!ずっと起きないから心配したよ!俺たち、ちょっと、長く日に当たりすぎたね」
「いや、俺は急にこの海を見ていたら頭が痛くなって、そして何か…なんだ」
ルートが身を起こして、こちらを真剣に見据える。
「フェリシアーノ、誤魔化さなくていい。俺は、覚えている。さっきまで、俺の代わりに彼がいたんだろう?」
「ルート?」
「フェリシアーノ…もう、隠すのはやめにしよう。俺の頭の中に、知らない記憶があるんだ。さっきもそうだったが…以前、ヴァレンティーノの日にも溢れてきてな…その記憶には幼い頃のお前がいた。知っているはずのないことが記憶にあるということは、今まで誰にも話したことはなかった」
兄貴にさえもな、と呟くように付け足す。
「俺は、それが誰の記憶なのか見当はついていた。さっきそれは確信に変わったが…。お前は彼を、神聖ローマの体が俺のものと同じだと知っていたんだろう」
その言葉が強く胸を揺さぶってくる。
お前の口から神聖ローマの名前が出る日が来るなんて。
あの子を知る誰もが、あの子とお前の関係を隠そうとした。きっと、お前も、神聖ローマという国の歴史を偉大な先達として知っていても、その国を背負った彼がどんなだったかは知らなかったはずだ。
俺たちはお前を守るつもりで、自分達を守りたかったのかもしれない。
あの子とお前が全くの別人だと受け入れるために。けれど、お前はそんな気配を感じていたんだね。
だから、話せなかった。
気のせいだって思おうとした。
「…うん、知ってたよ」
「…そうか」
それだけ言うと、ルートは押し黙ってしまった。責めるでも問い質すでもなく、気まずい沈黙が続く。
「…俺たちが黙ってたこと、怒ってるの、ルート」
「…………いや、むしろ感謝している。お前たちは俺を彼の代わりではなく、俺として見ようとしてくれたんだろう」
それに、と彼が返事を待たずに続ける。
「今はほっとしているんだ。ずっと、俺は海を探していた。その感情が彼の遺したものだと知った今も、俺はまだ海が…お前が欲しいと思う。この気持ちは紛れもなく、自分の感情なんだ」
フェリシアーノ、と呼ぼうとする唇を塞ぐ。
一瞬彼は驚いたように身を固くしたがすぐに受け入れた。
温かくて、優しい唇だった。こんなにも愛おしくてたまらないのだと、お互いの舌が言葉よりも鋭敏に伝える。それでも、ルートの唇と瞳はまだ小さく震えていた。
日の暮れかかった砂浜にぴったりと寄り添う影が映っている。
体を寄せ合いながら、ルートヴィッヒは何も言わずにただ黙って少しずつ碧を深めていく海を眺めている。まだ年若い国の彼は、国が消える瞬間を見たことなんてない。
だから、きっとさっきの出来事を飲み込むことに少し時間がかかっている。それが、自分の存在に関わる問題ならなおのこと。
いよいよ日が沈むという頃になってようやく彼は口を開いた。
「…彼とお前のおかげで、やっと、海を見つけられた。だが、逆にわかったことがある。俺にとっての海はもう一つあった。俺にとって初めて見た海で、何度も一人で見に行った。だが、もう、見ることが出来ないかもしれないんだ」
その後に続くべき言葉は彼から出てこなかった。
けれど、何を言おうとしたかなんて分かりきっている。神聖ローマが言っていた、ルートを苦しめているもう一つの疑問。
「ギルベルトのことでしょ」
弾かれたようにルートヴィッヒが向き直る。
こちらを見据えるルートヴィッヒの顔は必死だった。
「教えてくれ、フェリシアーノ。兄貴は、このまま…………消えて、しまうのだろうか」
消える、という言葉を口にするときの僅かな間は重々しく、その声はかすれていた。
なんて、答えるべきなんだろう。
消えてしまう直前の爺ちゃんみたいに、だんだん弱ってそしてーーー消える。それかお前みたいに誰かに引き継がれる。
でも、ギルベルトはもうお前にすべての力と、そして愛を全部渡した。だから、もし彼が消えてしまったらそれは、本当の「終わり」なのだ。
でも、そう簡単に彼は終われるわけがない。終わってほしくない。だって、それがギルベルトだから。
慎重に言葉を選びながら、口を開く。
「消えるよ、普通はね。でも、ギルベルトは国がなくなってから随分たつけど、まだ消えてない。お前の側にいるからかな。ギルベルトが消えたくないと思えば、お前の側にいる限りは消えないかもしれない」
難しいことは、俺もわかんないよ。とルートヴィッヒの冷たくわずかに湿った手を握った。
「兄貴は、自分が消えてもいいと思っている。俺に全てを引き継げればそれで満足なのだと言っていた。俺も、その期待に恥じぬような在り方を目指したいと思っていたが…あの満足したような顔を見る度、苦しくなる。俺たちが二つに分断されたときのように、家に戻ったら何も変わっていないのに、兄さんだけがいない、そんなことがまた起こるのではないかと」
「ルートは、それをギルベルトに言ったことある?」
ルートヴィッヒは首を振り、言えるわけがないだろうと空いている方の手で顔を覆った。
「なら、言わなきゃダメだよ。言えなくなってからじゃ遅いんだ」
そう、あの時。「900年代から好きだったよ」と言うこともできなかったことを後悔した俺のようにお前たちはなってほしくない。
「上手く、言えるだろうか。言いたいことはたくさんあるが、本当に言いたいことを上手く言える自信がない」
「大丈夫、言えるよ。上手く言えなくても、思ってること全部言っちゃえばいいんだ」
海が小さく、波を立てながら頷くように鳴った。