テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昨夜の、あの心臓が止まりそうな口づけから一夜。
私は期待と不安で一睡もできずに朝を迎えたけれど
現れたルカスはいつも通り、塵ひとつない燕尾服を端正に纏い、完璧な執事の顔で現れた。
「おはようございます、お嬢様。本日の朝食はテラスにご用意いたしました」
(……嘘でしょ。あんなことしちゃったのに、何事もなかったみたい……)
少しは動揺してくれていると思ったのに。
やっぱり、私だけが浮かれているみたいで、胸の奥がちくりと痛む。
けれど、朝食の席で紅茶を注いでもらう時、私はある違和感に気づいた。
ルカスの指先が、カップに触れる際にほんのわずかだけ、いつもより慎重すぎる気がしたのだ。
「ねぇ、ルカス。もしかして、怒ってる?」
「?いいえ……?」
彼は即答する。
けれど、いつもなら髪を整えたり、自然に触れてくるはずの彼が、今日は絶妙に私との接触を避けている。
私はたまらなくなって、立ち去ろうとする彼の燕尾服の袖をぎゅっと掴んだ。
「嘘よ。だって、さっきから一度も目が合わないもの!」
「……っ。それは、気のせいかと」
苦しい言い訳をしながら振り返ったルカスを見て、私は息を呑んだ。
白い手袋で口元を覆い、冷静さを装ってはいるけれど。
隠しきれない彼の耳たぶが、茹でた海老のように真っ赤に染まっている。
「……それよりも、お嬢様。昨夜のようなことは、今後は控えていただけますか? あのようなことをされると……その、仕事に支障をきたしかねませんし。非常に、困ってしまいます、から」
視線を泳がせながら、絞り出すように言う彼。
困惑しているはずなのに、その声はどこか微かに震えていた。
私は一転して、弾むような心地になった。
「え……耳、真っ赤よ。もしかして、照れてるの……?」
「い、いえ、全く」
「ええっ、絶対照れてるわ! なんだ、ルカスだって普通の男の子みたいになるのね!」
嬉しくなった私は、椅子から立ち上がって背伸びをした。
そして、彼の赤くなった耳たぶを指先でにぎにぎしてからかった。
熱い。
私の指に伝わる彼の体温が、昨夜のキスの余熱のように思えた。
だが、ルカスにその手をやんわりと払われてしまう。
「と、とにかく、恋人のような真似はおやめください。それこそ、外でこのようなことをすれば『淫乱令嬢』という噂が本物になりかねませんよ?」
彼は必死に「執事」という盾を持ち出して、私に釘を刺してくる。
けれど、そんな言葉は今の私にはこれっぽっちも通用しない。
「ええ、外ではしないわよ。……でも、ちょっとは意識してくれたってことよね!?」
食い下がる私を、ルカスはそれ以上直視できないという風に、なかば強引に自室まで送り届けた。
「しません」という頑なな拒絶の言葉すら、今の私には最高の照れ隠し……
甘いメロディに聞こえてしまった。
◆◇◆◇
その日の午後───…
上機嫌な私は、模様替えを兼ねてクローゼットの整理を始めた。
奥の方まで手を伸ばし、古い荷物を整理していた
そのとき
指先に硬い、けれど馴染みのある感触が当たった。
「あ……これ」
引っ張り出したのは、手のひらに乗るほどの、小さな四角いアクセサリーケース。
何年も前に大切に仕舞い込んで、けれど開けるのが怖くて隠していたもの。
私はゆっくりとテーブルにそれを置き、緊張する手でそっと蓋を開けた。
中には、十三年の月日を経てすっかり乾燥し、色褪せた赤い薔薇の冠が入っていた。
五歳のあの日。
泣き虫だった私を励まそうと
当時十五歳だった見習いで、私の世話係補佐になった彼が、庭の薔薇を編んで作ってくれた世界に一つだけの花冠。
『これは、世界で一番美しいお姫様への贈り物です』
そう言って跪いた彼に、私は夢中で恋をしたのだ。
この枯れた薔薇は、私の初恋の証。
そして、彼と交わした「結婚の約束」の唯一の欠片。
「……ルカス」
ボロボロになった花びらをそっと指でなぞる。
あの頃の彼は、今の私を、今の私の想いを想像していただろうか。
あのとき、私は嬉しさから彼に告げたのだ。
『私、大人になったらルカスと結婚するの!』と。
ルカスは困ったように、けれど優しく
『それまでお嬢様が私を好きだったら、ですね』と笑ってくれて。
お互いの小指を握って約束を交わした日のことを、私は昨日のことのように鮮明に覚えている。
(でも、だいぶ昔のことだし……ルカスは忘れてるよね)
そう考えていたとき、不意に扉を叩くノック音が響き、私の肩が小さく跳ねた。
「お嬢様、昼食をお持ちしました」
ルカスだ。
私は慌てて「ありがとう、今開けるわ」と返事をして立ち上がり、扉を開ける。
部屋に入ると、すぐさまテーブルの上のケースに目が行ったルカスが問いかけてきた。
「おや、なにか探し物でも?」
私は動揺を隠すように、花冠をケースにしまい直した。
そのままクローゼットに片付けながら、わざと素っ気なく言ってみる。
「少し部屋の整理をしていたら昔ルカスに貰った花冠が出てきて。まあ……ルカスはもう覚えてないだろうけど」
自嘲気味な薄ら笑いを浮かべた私だったけれど、ルカスは間髪入れずに言葉を返してきた。
「覚えてますよ。私が初めてお嬢様にプレゼントしたものなのですから」
振り返ると、彼はいつになく真剣な眼差しで私を見つめていた。
その真摯な響きに、私は嬉しさのあまり固まってしまう。
「え……覚えてたの?」
「忘れもしませんよ」
予期せぬ答えに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
私は少しだけ勇気を出して、一番聞きたかったことを口にした。
「……じゃあ、私と結婚の約束してくれたのも、覚えてたりする?」
ルカスは少しだけ目を細め、懐かしむような表情を浮かべた。
「ええ、当時は当主様によく嫉妬されたものです」
「……ふふっ、そんなことが? なんだか面白いわね」
父様の過保護ぶりを思い出して、思わず笑みが漏れる。
ルカスは私の表情を見て、安心したように言葉を続けた。
「はい。ですが……もう古いものでしょう?花冠が欲しければ、またあのときと同じように、新しいものをお贈りしますが……?」
彼の提案はどこまでも丁寧で、誠実だった。
けれど、私が欲しいのは「新しい花」じゃない。
「もう、わかってないわね。あのとき、ルカスが初めてくれたものだから。しかも、結婚の約束をした花冠だからこそいいんじゃない」
私の言葉に、ルカスは一瞬だけ呆気に取られたように目を見開いた。
「……それは失礼を致しました。まさか、そんなに大切にしてくださっているとは思わなかったので、恐縮です」
深々と頭を下げる彼に対し、私は胸元のケースを抱きしめるようにして、はっきりと告げた。
「ルカスからもらったものだもの……! どんな宝石よりも大切にするわよ」
私の真っ直ぐな言葉に、ルカスは言葉を失ったように私を見つめ返した。