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「……本当に行ってくれるのね?」
期待と不安が入り混じった私の問いに、目の前の完璧な執事は、穏やかな微笑みを浮かべて深く一礼した。
「ええ。本日はヴィル様も領地の視察で不在ですし、お嬢様の気晴らしになるのであれば、お供いたします」
「そうこなくっちゃ!」
私は弾んだ声で答え、心の中で小さくガッツポーズをした。
数日間にわたる粘り強い交渉の末
私はついにルカスを「買い物」という名のデートに連れ出すことに成功したのだ。
表向きは日用品の調達。
けれど、私にとってはこれ以上ない特別な時間。
ルカスはいつもの燕尾服姿だったけれど、街の風景の中に立つ彼はいつも以上に格好良く見えて
馬車に乗る前から私の心臓はうるさく跳ねていた。
活気に満ちた街へ出ると、ルカスは常に私の半歩後ろを歩き、人混みの波から私を庇うようにしなやかに動く。
その守られている感覚が、たまらなく愛おしい。
不意に、彼が私の手を取った。
「お嬢様、こちらへ。馬車が通ります」
見上げれば、彼は珍しく手袋を外していた。
布越しではない、彼の素手の熱がダイレクトに肌に伝わってくる。
ほんの一瞬の出来事だったけれど
指先から全身に電流が走ったような衝撃に、私はその熱だけで倒れてしまいそうだった。
歩き疲れた私たちは、テラス席のある小さなカフェに立ち寄った。
運ばれてきた甘いお菓子を頬張る。
「んん! おいしいわ~……っ」
幸せを噛み締める私を見て、ルカスが目を細めた。
「ふふっ、お嬢様ったら……ほら、口元にクリームがついていますよ」
彼は笑いながら、繊細な刺繍の施されたハンカチを取り出した。
自分で拭くから、と言う暇もない。
彼の長い指先が、ハンカチ越しに私の唇の端をそっとなぞる。
触れられるたび、顔が急激に熱くなるのを感じる。
「……ねぇ、ルカス。みんな、私たちのこと『恋人同士』に見えてるのかしら」
隣の席の老夫婦が、微笑ましくこちらを見守っているのに気づいて、私はわざと少し小悪魔な笑みを浮かべて聞いてみた。
ルカスはティーカップを置く手を止め、困ったように眉を下げた。
「お嬢様。これほど美しいお嬢様に恋人と間違われるのは光栄ですが……きっと、令嬢とその執事としか思われませんよ」
「もう、すぐそうやってお世辞で誤魔化すんだから……」
私はわざとらしく溜息をついたけれど
彼と2人きりで街を歩けるという事実だけで、心の中はもうお祭り騒ぎだった。
◆◇◆◇
「あ、ルカス見て! あの雑貨屋さん、可愛いわ!」
カフェを後にした私は、高鳴る鼓動のままに、向かいに見えた小さなお店へと彼の手を引いて走り出した。
店内に一歩足を踏み入れると、煌びやかな装飾品が所狭しと並んでいる。
その中で、まず私の瞳を射抜いたのは、深い赤色をした石のブローチだった。
高価なエメラルドやダイヤモンドといった宝石類とは違う。
一目で庶民向けの、言い方は悪いけれど安っぽいものだとわかる。
けれど、その燃えるような赤が、何故だか私の目を奪って離してくれない。
「……素敵。綺麗な赤色ね……っ」
それは、あの日ルカスがくれたバラの冠と同じ、私の記憶に深く刻まれた色合い。
つい見惚れて立ち尽くしてしまう。
「お嬢様、気になりますか?」
背後から近付いて来たルカスが耳元で囁き、その低い響きに私は我に返った。
慌てて手を引っ込めながら振り返る。
「ふふ、ルカスがくれたバラの冠と似た色だから、見惚れちゃって」
言いながら、どうしても気になって店員に値段を尋ねると、予想より遥かに高い数字が返ってきて驚いた。
「……ううん、高いし、やめておくわ」
私は後ろ髪を引かれながらも、商品を元の場所に戻そうとした。
すると、ルカスが少し真剣な顔をして私を見つめた。
「お嬢様、今日はデートなのですよね」
「え? そう、だけど」
突然の問いかけに固まっていると、彼はそのブローチを大きな手で優しく取った。
「少し待っていてください」
ルカスはゆっくりと店主の元へ向かい、淀みない動作で代金を支払い始めた。
「ルカス……?」
戸惑う私のもとへ、彼はブローチの入った小箱を持って戻ってきた。
「お嬢様、これは今日、私とデートしてくださったお礼で、個人的なプレゼントです」
ルカスは柔らかく微笑んでそう言った。
彼はブローチを小箱から取り出すと、「失礼します」と一言断りを入れてから、私に静かに歩み寄る。
あまりに自然な動作に、私は身構えることも、拒むこともできない。
ルカスの整った顔が近づいてくる。
吐息がかかるほどの、未知の距離。彼自身の温かい匂い……
清潔な石鹸と、微かな紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
「お嬢様の綺麗な金髪に映えて、よく似合うと思いますよ」
耳元で低く甘く響く声。全身が一気に熱を帯びる。
睫毛が触れ合いそうなほどの至近距離で
彼の手袋をしていない剥き出しの指先が、そっとブローチを服に固定した。
胸の谷間に近い場所に触れる、彼の指の僅かな圧力。
息が止まりそうだった。
「っ……!!」
声にならない悲鳴が喉の奥で消える。
頬だけでなく首筋まで真っ赤になっている自覚があった。
ルカスがそっと離れると、私は俯きながら、震える手でブローチの縁をなぞった。
「あ……ありがとう……こんな高価なもの……本当にもらっていいの?」
ブローチの重みと共に、彼の指先が触れた余韻がまだ肌にじりじりと残っている。
心臓がバクバクと暴れて、耳の奥で自分の鼓動がうるさいほどだった。
ルカスは私の顔を優しく見下ろし、その剥き出しの指先で、ほんのわずかに私の肩に触れた。
羽毛が触れるような、触れるか触れないかのかすかな接触。
「もちろんですよ。これはお嬢様への──私の気持ちですから」
最後のひと言は、吐息に混じるような微かな囁きだった。
周囲には決して聞こえない、私だけに向けられた音。
その言葉がはっきりと届き、私の顔はさらに火照った。
店員さんがニコニコしながら見守っているのが、今は余計に恥ずかしくてたまらない。
店を出ると、喜びが爆発しそうだった。
ルカスに付けてもらったブローチを、上から抱きしめるように押さえる。
赤い輝きが陽の光を受けてきらめき、そこにルカスの温もりも同時に閉じ込められている気がした。
「ルカス……本当に嬉しいわ。これ、ずっと大切にするわね!」
「ふふっ…喜んでもらえたなら、何よりです」
ルカスからのプレゼント。
その事実だけで、私の足取りは羽が生えたように軽くなった。
石畳を弾むように歩いていた、その時だった。
「あ……っ!」
浮かれていた私は、不揃いな石に躓いてしまった。
身体が大きく前へ傾く。
地面が迫る恐怖に思わず目を瞑った瞬間
グイッと、強い力で腰を引き寄せられた。
バランスを崩した私の体は、しっかりとルカスの胸の中に収まっていた。
「危ないですよ、お嬢様。気をつけないと」
低く落ち着いた声が頭上から降りてくる。
けれど、安心感よりも先にある恥ずかしさが限界を突破した。
至近距離にあるルカスの整った顔。
燕尾服の胸元からは彼の体温が直接伝わり、私の心臓は壊れた時計のように激しく刻み出す。
「お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫よ! ありがとう……助かったわ」
顔だけで振り向き、なんとか絞り出した声は上ずっていて、自分でも驚くほど弱々しい。
彼はフッと優しく笑うと、ゆっくりと私を立たせてくれた。
「お嬢様? 先程から気になっていたのですが……お顔が赤くありませんか?」
「えっ!? そ、そんなこと……っ!」
慌てて両手で頬を押さえるが、掌に伝わる熱は尋常じゃない。
「……具合が悪ければ、少しベンチで休みましょう」
ルカスは心配そうに、私の額に手を当てようとする。
体調は、これ以上ないほど万全だ。
ただ、緊張と喜びと恥ずかしさで頭がどうにかなりそうなだけ。
「大丈夫よ! ちょっと……困惑しただけで」
「お嬢様……? もしや本当に熱があるのでは……」
「だ、だから! ルカスがドキドキさせるからでしょ……っ!」
我慢できなくなって、つい感情のままに本音が飛び出した。
「え? どきどき……?」
ルカスに聞き返され、私はすぐに自分の発言の重大さに気づいた。
慌てて両手で口元を押さえる。
「……っ! 今のは聞かなかったことにして……」
視線を地面に落とし、小声で必死に訴えると、ルカスはしばらく黙って私を見つめていた。
やがて、彼は微かに笑った。
「お嬢様は……相変わらず可愛らしいですね」
「かっ!?」
予想もしない言葉に、またしても動揺する。
ルカスは楽しそうに目を細めた。
「ふふっ……私にキスをする度胸はあるのに、お買い物だけでドキドキされるなんて……お嬢様らしいなと、微笑ましくなりまして」
そう言いながら、彼は私の乱れた髪をそっと直してくれる。
その手つきは、どこまでも慈しみに満ちていた。
「そ、それとこれとは別よ……!」
真っ赤になって睨みつけると、ルカスはさらに笑みを深めた。
「申し訳ございません。お嬢様の反応が可愛らしくて……つい」
「……っもう! そういうこと言わないで……!」
私はそっぽを向きつつも、内心では嬉しさで破裂しそうだった。
本当に、こんな扱いをされたら勘違いしそうになる。
ルカスも私のことを好きなんじゃないか……って。
なんて、ルカスは執事を徹底している訳だし、きっと私を「からかい甲斐のある少女」として見ているだけかもしれない。
自惚れそうになる自分が悔しい。
けれど、それでも、こうして二人きりの時間を過ごせるのは、何物にも代えがたい幸せだった。
それから更に散策すること一時間。
行きたい場所をすべて案内してもらい、日没まで街の空気を楽しんだ。
夕暮れ時には帰路につき、再び馬車に乗る頃には外はすっかり暗くなっていた。
ルカスと過ごした今日一日が、万華鏡のように頭の中を駆け巡る。
馬車の窓に映る自分の姿を見るたび、胸元で静かに輝く赤いブローチが目に留まった。
◆◇◆◇
帰宅後───…
ルカスに部屋まで送られ、ベッドに入るまでの間も、彼との出来事が頭から離れない。
彼の指が触れた素肌の温もり。耳元で囁かれた言葉。
そして、今日初めて感じられた、ルカスから私への確かな気持ちの断片。
何度も何度も同じシーンが再生され、そのたびに胸が苦しくなる。
このまま眠れる気がしないけれど、明日、寝不足の顔を彼に見せるわけにはいかない。
「なんだか……夢みたいな一日だったわ……」
私はそう独りごちて、ゆっくりと瞼を閉じ
深い呼吸を繰り返しながら、ルカスの優しい微笑みを思い出し、そのまま静かに意識を手放していった。