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その呼び慣れた名を叫び、レモニカは倒れ伏すソラマリアに縋りつく。そして抱きかかえるようにして血の迸る首筋を懸命に抑え込んだ。それでもなお生命そのもののような温もりある液体はどくどくと流れ出す。ソラマリアの体がみるみる冷たくなって、更には魂が抜けたように軽くなっていくようにさえ感じられた。
取り押さえられるリューデシアを横目に、レモニカは傷口を抑えながら外套を脱ぎ去り、ソラマリアを覆う。
「厚い布でソラマリアを覆ってください!」とレモニカが呼びかけると、ユカリが外套をラーガが外套をソラマリアに覆いかぶせる。
『闇の内に豊かなる娘は光に抱かれ眠りにつく』。暗闇の内ならばソラマリアは死なぬと解釈された母ヴェガネラの予言、加護の力が如何ほどのものか、娘レモニカには少しも推し測れていなかったが、縋れるものには縋るしかない。
四人の戦士がラーガに命じられてソラマリアを担ぎ上げ、要塞にあるという医務室へと運ぶ。頭も戦士に持ってもらい、レモニカは首の傷を抑え、血を止めることに集中する。
後に残したリューデシアは羽交い締めにされながらもまだ暴れていた。戦いに使えるような厄介な魔術は修めていないらしいが、どこに封印があるのか分からないようだ。
出来立てのはずの医務室は既に何年も利用されてきたかのような貫禄があった。明かりは少なく、鼻の奥を刺すような薬品の匂いが充満している。レモニカの身を侵す呪いの調査のために、幼い頃から何度も通っていた地下室を想起させた。自身が呪われた存在であることをレモニカがまだ知らなかった頃はその黴臭い空間をただただ嫌っていたが、その真実を知ってからは唯一誰に観られる心配もなく安らげる場所になっていた。
人の通う地下墓地のように薄暗い医務室だが、多くの者はまだ起きていて怪我人たちは寝台に横たわって養生しているが、医者らしき女と静かに談笑していた。そこに慌ただしく飛び込んだのだが、医者は破られることのない門の門番のように落ち着き払った様子でレモニカたちを迎えた。
「どうした? 何事だ?」そう言ってから外套に包まれたソラマリアに目をやる。「わたしは葬儀屋ではないのだが」
「首を斬られたのです! 早く診てください!」
答えながら、空いている寝台にソラマリアを寝かせる。三重に覆っている外套の一番外まで血の染みが広がっており、すぐに寝台の方へも赤く染み込み、花開くように紅が広がる。
「患者は何者だ?」と医者は呑気に尋ねる。
「今はそんなことはどうでもいいでしょう!?」
「そういう訳にもいかない。全員の顔を覚えている訳ではないからな」
レモニカにはその言葉の意味が分からなかったが、問い詰めていられるほど冷静にもなれなかった。「ソラマリアです! あるいはシャリューレ! 王女レモニカの近衛騎士が1人! シャリューレです!」
医者は僅かな焦慮も感じさせることなく、午睡から目覚めたばかりのような面持ちで淡々と答える。「ああ、申し訳ないが、それは対応できない。というのも――」
レモニカは顔を真っ赤にして医者に詰め寄った。「出来ない!? 大王国の戦士を癒すのが貴女の仕事でしょう!?」
すると医者の顔は屍の如く青褪め、レモニカを見つめる目は大きく見開き、仰け反るようにして転倒する。両手で目に見えない何かを払うようにしながら必死に後退っていく。
「嗚呼! 許してくれ! わたしは真の癒しを与えようと思ったのだ!」
「何をごちゃごちゃと言っているのですか! さあ、早く立ちなさい!」
医者の方へ伸ばした血に濡れた自分の手の屍蝋の如き白さに驚いて、レモニカは反射的に引っ込める。歳の頃の近い女の手のようだ。凍てつく冬の寒空に放り出されたかのように震える医者の様を見るに、この女に相当の罪悪感を抱えているらしい。
レモニカは怒りの余り、自身の呪いのことさえ忘れていたのだった。すぐにソラマリアの方へ引き下がり、レモニカ自身の姿へ戻り、ほんの僅かに安堵する。呪いが反応する以上、ソラマリアはまだ生きている。そして再び焦りが募る。
「癒す者。シャリューレを癒せ」と背後から【命じた】のはラーガだった。「すまんな。俺と部下のみ治療せよと命じていたのだ。失念していた」
癒す者がまるで処刑台を上る死刑囚のような恐怖の表情でソラマリアの元へ向かってくるので、レモニカは慌ててソラマリアを挟んで反対側へ回り込んだ。
癒す者は本性の姿へと変じる。二本の顎を持つ甲虫の頭、熊のような固い毛に覆われた巨体、四本の人間の。そして脚の代わりに車輪が生えている。手続きを省いた魔術による治療は一瞬で、同時に行われる。傷はすぐさま縫い合わされ、血は完全に止まる。新たな血さえも補充され、ソラマリアはみるみる内に血色を鮮やかに蘇らせた。死を想起させる苦痛に歪んだ表情も緩和され、穏やかな寝息を立て始めた。
医者が使い魔である可能性にすら気づけず、あまつさえ怒りのあまり呪いのことも忘れてしまった、とレモニカは久々に自身の未熟ぶりを思い知らされた。
と、後悔するも反省する間もなく、雷が頭上に落とされたかのような巨岩が打ち壊されるような激しい音が鳴り響き、耳が塞がれる、と同時に目も塞がれたかのように辺りが暗闇に包まれる。戦士たちの野太い悲鳴があちこちで聞こえる中、レモニカは窮屈な場所に押し込められた。
つまり巨大な何かに変身してしまったのだ。ソラマリアに触れているつもりだったが、一瞬離れてしまったのだろう。そして同時に直ぐそばにいた誰かに触れてしまい、その者が恐れている怪物か何かに変身したのだ。レモニカが感じるのは感触だけだった。しかしこれほどに雄弁な感触を感じることもない。空気の流れや気圧、温度、湿度、それらの動きによって周囲の状況が一々把握できる。
人々が叫びながら右往左往している。言葉の内容までは分からないが、音程で性別は把握できた。特に大きな声で叫んでいる女性が兄だろうことは直ぐに分かった。このまま討ち取られてもおかしくない状況かもしれない。が、身動きは取れなかった。それこそこの巨体で更なる破壊をもたらせば叛意のように受け取られてもおかしくない。不安だが兄の慈悲を信じ、祈るしかない。
そこへ駆けてきたのがユカリだということは何故か直ぐに分かった。一挙手一投足に安心を感じる。ユカリは封印を取り出し、レモニカの巨体に貼り付けた。途端にその体は縮み、次はモディーハンナの姿へと変じていた。嗾ける者の封印が左の頬に貼られている。
恐怖のせいか膝が震えている。ユカリに布越しに肩を貸してもらい、何とか立ち上がる。
「申し訳ありません。とんでもないことをしでかしてしまいました」
「大丈夫だよ。さあ、一旦外に出よう」
「わたくし、一体、何に変身していたのでしょう?」
「分かんない」とユカリは正直に答える。「何だか黒くて長い蛇みたいな。でも毛が生えてた」
レモニカには覚えがあった。古い物語で読んだ覚えがある。それは、卑怯者の象徴とされた怪物だ。
レモニカは恐る恐る顔を上げて周囲を見渡す。予想していた光景だ。要塞の一部が崩壊しており、既に例の建設の使い魔が働き始めている。癒す者もまた黙々とレモニカに傷つけられた者たちの手当てを始めている。
そしてレモニカ自身はライゼンの戦士たちの無数の恐怖の眼差しに刺し貫かれていた。ただ、兄ラーガの瞳だけは怯えではなく、蔑みが宿っていた。久しく見なかった見慣れた光景だ。