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夜も半ばを過ぎる頃には建てる者によってほぼ修繕が完了した要塞の一室でレモニカはまんじりともせず後悔と自責に苛まれていた。
皆の静かな寝息と窓帷の隙間から差し込む月明かりの中、モディーハンナの姿のレモニカはゆっくりと起き上がる。そして心の中に語り掛ける。
「申し訳ありません。わたくしが不甲斐ないばかりに嫌な思いをさせて」
「……ん? ああ、私に言ってます?」と心の中で嗾ける者は答える。「気にすることはないですよ。忌々しい女ですが、恐怖を感じている訳ではないので。我々の気持ちを慮ってくれるだけで有情というものです。それに比べてこの、あの、その女は一体何を考えているのやら」
「そう言えばあなたは元々救済機構に忠誠を尽くしていたそうですね。こう言っては何ですがほとんどの使い魔は他者に使われることを嫌っているように思うのですが。理由を聞いても良いですか?」
少しの沈黙の後、嗾ける者はレモニカの心の奥で答えた。
「大した理由じゃありませんよ。忠誠というほどでもありません。ただ私の持つ力を全力で十全に使い尽くしたいだけです。それにはああいう巨大な組織に貢献するのが分かりやすいですから。表向きには平和と安寧の徒ですし」
部屋を同じくするのはユカリ、そしてアギノアだ。ユカリの毛布は少し乱れているがアギノアは屍のように身動き一つ取っていないようだった。
レモニカは臆病な影のように寝台から忍び出て、大胆な盗人のように寝室から抜け出た。そして考えがまとまらないままに医務室へと向かっていた。
ソラマリアの命に別条はないという言葉を得られるまでレモニカは医務室に縋りついていたのだが、終始医者としての使命とは別種の緊張感を伴っている癒す者に対して居たたまれなくなり、逃げるように去ったのだった。
謝罪はしたが許しは得ていない。あの蝋のような肌の色の人物にどのような嫌悪感を抱いているのか知る由もないが、詮索する権利などない。許しを得たいなどというのはある種の傲慢さの表れかもしれないが、堪えようもなくレモニカの背中を突き動かすのだった。
医務室もまた静まり返っていた。薄暗い部屋に並ぶ寝台、癒しの魔術に使っているらしい奇妙な器具、そして椅子に座った癒す者はソラマリアとリューデシアのそばで本を読んでいた。姉リューデシアの方は眠っていた。結局、ヒューグから解放した後の少しの会話も行動も使い魔演じる者の言葉と命じられた任務だったのだ。
レモニカの訪問に癒す者は視線を上げ、緊張した面持ちで会釈する。
「夜分遅くにすみません。改めて謝罪を、と思いまして」とレモニカは口を開く。
「このような時間に、か?」と最もな答えを癒す者は言った。
「申し訳ございません。わたくしの姿を見れば、患者の皆様に余計な心労をかけるだろう、と考えてこの時間に参りました」
「気にするな。大切な人が大怪我をしたとあらば動揺し、狼狽するのは必定というもの。わたしも医者として、そのような状態の者たちを何千と見て来たからな。その上ラーガ王子の命令下とはいえ、医者に診療を拒まれたとあっては恐慌状態に陥るのも必然というもの。むしろ個人的な事情でああも慌てふためいてしまって汗顔の至りだよ」
言葉の上では許してくれたようだが、まだ緊張感を伴っているようだった。念視の魔術を使えばそれは明らかになるだろうが、それは礼儀を失するだろう。
「あなたに罪は有りません。わたくしの呪いの、それが忌まわしいところですから。ですが、ありがとうございます。何か手伝えることがあれば仰ってください」
「王女に手伝いなどさせられんよ」と癒す者が形式的に拒む。
「それこそお気になさらず。それに、わたくし、あの方にも謝罪しなくてはなりませんし」
「あの方、というと、きみを怪物に変身させた者か?」そう言って癒す者は寝台に横たわる患者たちの方へ目線をやる。
「ええ、おそらくあの方ですわよね」とレモニカはソラマリアとリューデシアを除く最も手前の寝台に眠る男に視線を向ける。「最も近い者に反応する呪いですので」
「ともあれまた明朝にでも来てくれ」
「お見舞いに行くの?」とユカリに声をかけられる。
新品の食堂で、皆で揃って朝食を終え、今後について話し合いをしようというところだった。しかし何をどうするにせよ、ソラマリアが喋れる程度に回復するのを待つ他ないと結論付けられた。
「ええ、それもありますが、何かお手伝いできることはないか、と。ご迷惑をおかけしましたので」
「ああ、それなら私も手伝うよ」とユカリが申し出る。「使い魔たちはとりあえず譲ってもらう目星はついたし」
ベルニージュとラーガの話し合いで、集めた魔導書を封印するという条件とも言えない条件のみで全て頂戴することに決まったのだ。
ベルニージュが何か言いたげに身を乗り出して、しかし言うまいと決めたのか身を引いたのが視界の端に見えた。
ベルニージュと、それにグリュエーも医務室で手伝ってくれることになった。アギノアはヒューグの元へ。除く者はまだユカリ派ではない使い魔たちに宣教ないし伝道するのだそうだ。
除く者が立ち去る前にレモニカは声をかけ、ずっと腕に抱えていた外套を見せる。
「除く者様。この血汚れは落とせるでしょうか? 大事な外套なのです」
ユカリに貰った大切な衣だ。ソラマリアの体を覆い、首から流れ出る血を止めるために使ったものだ。仮に血が落ちなかったところで宝物であることは変わらないが。
「善処します。ご期待に添えるかどうか、約束はできません」
「もちろんですわ。貴方に洗い落とせないならば誰にも洗い落とせませんもの。諦めもつくというものです」
そうしてレモニカたちは医務室へとやってきた。
一夜が明け、使い魔建てる者は完全な修繕を成し遂げ、医務室はすっかり元の通りになり、昨夜の惨状を想起させるものは何もなかった。変わらぬ患者たちの談笑と呻き声、薬品の臭いもあいかわらずだ。
レモニカは看護を手伝えるのではないかと考えていたが、救う者という使い魔が看護師として働いており、必要十分以上の働きをしていた。癒す者との二人に掛かれば治らないものなど何もなさそうだ。
「あの人にも謝りたいんだよね」とユカリがレモニカの心を見透かしたように問いかける。
あの人というのは例の怪物を恐れている戦士のことだ。
「はい。しかし相手が王女では内心はどうあれ言葉の上では……。それでは意味が無いように思えるのです」
「意味って? 何の意味?」とベルニージュに問われる。
「真の許しは得られないのではないか、と」
「許されるために謝罪するべきじゃないと思うよ」とユカリに指摘される。
「それは……。はい。その通りですわね」
「そもそも何で許されたいの?」とベルニージュに重ねて問われる。
自己満足に過ぎない、ということだろうか。しかし過ちに対して謝罪が無い、というのも不埒ではないだろうか。
レモニカが紡ぐべき言葉に迷っている内に癒す者が戦士に話をつけてくれた。
「昨夜は申し訳ないことをしました」とモディーハンナの姿でレモニカは謝罪する。「我が大王国の、ひいては兄ラーガの忠良なる戦士、名誉の負傷者に対し、報いるべき立場のわたくしがいらぬ恐怖を与えてしまいました」
「滅相もございません」と戦士は寝台に横たわりながら恐縮する。「むしろ勇猛たるべきライゼンの戦士が情けない姿を見せてしまったことを悔やむばかりです。どうかお許しください」
「貴方に罪はありません。わたくしにかけられた呪いは心の奥を暴く無遠慮な邪術。そしてどれほど勇猛な者も恐怖を抱えているものであり、それを乗り越えられるあなたのような者こそを真に勇気ある者と称するのです」
「身に余るお言葉です」
念視の魔術を使うまでもなく目の前の戦士の気持ちは分かる。たとえラーガが身分を保証したところで、長らく身を隠していた王女から与えられた栄誉など何の価値もない、と目の前の戦士が感じているだろう。
「ところであの怪物ってライゼンでは有名なの?」とグリュエーが無邪気に尋ねた。ユカリの方も気になっていたようで眼差しで問いかけられる。
「ええ、竜の卑小な末裔、這い闇という怪物です」と戦士は照れながら答えた。
「その昔ライゼンで討伐され、その物語は広く語り伝えられているのです。夜の剣のマルカティシアの名と共に」とレモニカが付け加えた。
「子供の頃に兄に脅されて以来、どうにも苦手でして」と戦士は恥ずかしそうに答える。
「わたくしも聞いた覚えがありますわ。早く寝ないと這い闇に一呑実みにされるぞ、と」
そして幼き頃の友メールマが酷く怯えていた。メールマは物語に出てくる怪物であれば何でも怯えていたが。
そうだ、とレモニカは気づく。幼い頃は許しを得たかったのではなく、安心させたかったはずだ。それはほとんど同じことのようにも思えるが、混同すべきではない。
その時、医務室にざわめきが起きた。皆の視線が一か所に集中していることにレモニカは気づく。振り返ると。リューデシアが癒す者の手を借りて半身を起こしているところだった。
戦士たちが見ているのは、幼い頃に行方不明になった王女リューデシアなのか、あるいはライゼン大王国最大の脅威たる救済機構の聖女アルメノンなのか、レモニカには掴み兼ねた。おそらくはどちらでもあるのだろう。敬意と警戒が医務室の空気に入り混じっている。
皆の見守る中、リューデシアの豊かな睫毛の間から深い青い瞳が医務室を眺める。そして花弁の如き繊細で細雨の如く柔和な微笑みを浮かべる。
「ライゼン大王国の皆さまですね。長い間、ご迷惑とご心配をお掛け致しました。少し記憶が混濁しているのですが」そう言って、感極まったのか、涙を目に浮かべる。「どうやら、ようやく、我が故郷の地へと、夢に見ぬ日は無かった戦士たちの国へと帰還する日がやって来たのですね」リューデシアの眼差しは鋭く閃き、弱った戦士たちを刺し貫くように睥睨する。「戦士たちよ。その奮迅の活躍は想像に難くありません。いずれも勇ましき英雄であることは武勇伝を聞かずとも分かります。その成し遂げたる功業に深謝致します」
この中の誰もリューデシアのために働いていたつもりの者はいないはずだが、戦士たちの目の輝きは己の労苦を誇っていた。
「リューデシア様が歩まれた艱難辛苦のご道程に対し、心より敬意を表し申し上げます。そして大王国への帰還の途につかれますことを心からお慶び申し上げます」と、這い闇を恐れる戦士が言った。
そして暫くの間、医務室にて「心からお慶び申し上げます」という言葉が繰り返し贈られた。