テラーノベル
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空中海上都市『スカイ・アクア・パラダイス』の夜は、地上のそれよりもずっと静かで、そして星に近い。
日中の喧騒──
移住を希望する調査団への対応や、新たな居住区の増設作業が嘘のように静まり返った夜。
俺とアクアは、島の端にある、海へと続く白い砂浜に隣同士で座っていた。
高度300メートル。本来なら凍えるような寒さのはずだが、俺が展開した気候制御シールドと
アクアが歌声で励起させた温かな魔力の循環が、ここを常夏の夜のように心地よく保っている。
「……綺麗ですね、カイリ様。海の中にいた頃も星は見えましたが、こんなに近くに感じたことはありません」
アクアが隣で、波に濡れた尾びれをゆったりと揺らしながら夜空を見上げる。
その横顔は、焚き火の淡い光に照らされて、胸が締め付けられるほどに美しかった。
「ああ。君が歌って、この島を浮かせてくれたおかげだよ。……ありがとう、アクア。君がいなかったら、今頃俺はただの行き倒れだった」
俺が不意に投げかけた感謝の言葉に、アクアは少しだけ表情を曇らせ、自身の銀色に輝く鱗をそっと撫でた。
「……カイリ様。あの、わたし……ずっと考えていたことがあるんです」
「なんだ……?」
彼女の声が、夜風に混じって微かに震える。
「地上で暮らすには、わたしの体は不自由すぎます。移動するにもカイリ様に運んでいただかなければなりませんし、いつもお水を綺麗に保っていただかなくてはならない……。カイリ様のご負担になるなら、わたくし……深海に住む『海の魔女』にお願いして、人間の足を生やしてもらった方がいいのかも、と思うんです」
心臓がドクリと跳ねた。
彼女が自分を「お荷物」だと思っていたなんて。
俺は慌てて言葉を返そうとするが、アクアの言葉はまだ続いていた。
「……俺は、アクアの綺麗な尾びれに、凄く魅力を感じているし……。何より、君のその一番のチャームポイントを無くしてしまうのは、良くないと思うんだ……って、こんなことを言ったら、俺のエゴでしかないよな。はは……」
俺は自嘲気味に笑い、視線を砂浜に落とした。
海洋オタクとしての執着なのか、それとも彼女自身のありのままを愛しているからなのか。
だが、彼女が「足」を望む理由が俺への遠慮だとしたら、それはあまりに悲しすぎる。
「でも…っ、それこそ、そんな魔法をお願いするなんて、きっと……とんでもなく大きな代償があるんだろう……?」
心配になって尋ねると、アクアは俯いたまま、絞り出すような声で答えた。
「……はい。確かに、綺麗な足を貰う代わりに、この声は、二度と出せなくなります」
「な…っ!」
「それに……意中の相手と結ばれなければ、最後には泡になって消えてしまう、という噂も……。昔、わたくしの友達の人魚が、陸に行ったきり二度と帰ってこなかったことがありましたから……」
思い詰めたようなアクアの表情。
その脳裏に浮かんでいるのは、二度と会えなくなった友の姿か、あるいは声も命も失う自分自身の未来か。
「そ、そんなリスクの高いこと……!!」
気づけば、俺はアクアの両手をぎゅっと握りしめていた。
「アクア、君には……そこまでして会いたい、恋をしている人がいるのか…っ?」
「…っ、それに、君の声が聞こえなくなるなんて、ハッキリ言って、俺は悲しい。……ここまで一緒に協力して過ごしてきた君が、泡になって消えるなんて、耐えられない」
俺の必死すぎる剣幕と、握られた手の熱。
あまりに近すぎる距離に、アクアは一瞬息を呑み、顔を林檎のように真っ赤に染めた。
「か、カイリ様……? 近い、です……」
「っ! ご、ごめん!!」
ハッとして、弾かれたように手を離す。
心臓がうるさいほどに脈打っている。
やってしまった。
今の台詞、完全にプライベートな感情が漏れすぎていただろう。
「……い、今のはなんというか、その……俺は、君が人魚の姿だからといって、負担だなんて感じたことは一度も無い。アクアがどうしても足が欲しいと思っているなら別だけど、俺のために尾びれを無くすつもりなら、反対したい」
「…!カイリ、様…」
「それこそ、この島に来た時から、俺はアクアに救われてばかりなんだ」
気恥ずかしさを誤魔化すように、自分の頭をガシガシと掻きむしる。
「……え? 瀕死のわたくしを救ってくださったのは……カイリ様じゃ……」
「形の上ではそうかもしれないけどさ。もし、この島に着いて、俺一人きりだったら……きっと、ここまで発展させる気力なんて湧かなかった。アクアが隣にいてくれたから、俺は前を向けたんだ」
「何より……俺は、アクアとの毎日が、最高に楽しいんだ」
俺は改めて、隣に座る彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「アクアの気持ちも聞かせて欲しい。俺との時間は、窮屈か?」
アクアは驚いたように目を見開いた後、ふにゃりと
今にも泣き出しそうなほど幸せそうな笑みを浮かべた。
「……いいえ。わたし……わたしも、カイリ様と過ごすこの時間が、新鮮な生活が…とても好きなんです」
月明かりの下、アクアの尾びれが嬉しそうにパシャリと砂を叩いた。
「…ふふっ、カイリ様がそう言ってくださるなら、気にしないことにしますね」
「あぁ、これからもアクアが退屈しないように工夫するから楽しみにしててくれ」
「ふふっ、さすがカイリ様。でも、私のことを考えてくださるのは嬉しいですが…頑張りすぎて倒れないでくださいね…?」
「わ、わかってるよ。これくらい大丈夫だ、アクアのためだし…」
俺が照れ隠しにそう言うと
アクアはくすくすと鈴を転がすような声で笑い、そっと俺の肩にその小さな頭を預けてきた。
夜風に乗って、彼女の髪から潮騒と甘い花の香りが混ざり合ったような、安らぐ匂いが漂ってくる。
ふと見れば、高度300メートルの夜空から降り注ぐ星屑たちが
彼女の頬を濡らす雫を反射して、まるで本物の真珠のように輝かせていた。
足を生やす代償に声を失い、泡となって消える悲恋の物語など、今の俺たちには必要ない。
(……この笑顔を、一生守り抜いてやる)
海洋オタクとしての純粋な執着も、一人の男としての独占欲も、今は心地よく混ざり合っている。
静まり返った『スカイ・アクア・パラダイス』の夜。
遠くで波打つ海の音と、隣から聞こえる穏やかな寝息。
俺を捨てた世界への復讐心さえも今は遠い霧の向こうへと消え去り
俺の胸の中にあるのは、ただこの温かな時間だけを永遠に刻みつけたいという、切実な願いだった。
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