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「でも、これ以上はお互いのために良くない」
そう言われて、胸が張り裂けそうな思いをしながらも必死で言葉を探した。
しかし、何も出てこないまま、沈黙だけが流れていく。
その沈黙が、二人の間に深い溝を作っていくようだった。
頭の中が真っ白で、何も考えられない。
すると、仁さんは俺の頬にそっと触れると
その指先が、冷たい涙の跡を辿った。
その手は、いつもと変わらず温かかった。
「だから、もう終わりにしよう」
そう言って悲しそうに微笑んで、俺に背を向けようとする。
その背中が、遠ざかっていくように見えた。
彼の微笑みは、別れを告げるにはあまりにも悲しすぎた。
そう言って立ち去ろうとする仁さんの腕を掴んで引っ張った。
すると仁さんは驚いたように振り向いて、その瞳が俺の目と合った。
彼の瞳の奥に、微かな動揺が見て取れた。
「…楓くん、やっぱり君は、普通の人と幸せになるべきだ」
そう言った仁さんの声は、どこまでも優しく
そして、どこまでも遠かった。
そうしてさんは、仁さんの服の袖を掴んでいる俺の手を、どこまでも暖かい手で引き剥がした。
その手のひらの温もりが、まるで幻のように消えていく。
彼の指先が、俺の指から離れていく感触が、鮮明に脳裏に焼き付いた。
そして、彼は部屋から出ていった。
ドアがゆっくりと閉まる音が
仁さんが俺のマンションを去っていく音が、静かに俺の耳に響く。
彼の足音が、遠ざかるにつれて小さくなっていく。
ガチャリ、と鍵が閉まる音がして、それが俺たちの関係の終焉を告げているようだった。
ドアの音が聞こえなくなるまで、俺は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
部屋の中には、仁さんの残り香だけが漂っていた。
俺と仁さんの関係はこれで終わりなのか……
そんなことを思いながら、俺は力なく床に座り込んでしまう。
そして、先程まで彼の温もりがあったところに触れると、涙が溢れ出していた。
頬を伝う涙が、冷たい床に落ちていく。
(仁さん……っ)
その翌朝───…
俺はよく知る天井で目を覚ました。
見慣れた白い天井が、いつもよりずっと広く、そして寂しく見えた。
昨夜の出来事が、まるで悪夢だったかのように、しかし鮮明に脳裏に蘇る。
朝日が差し込んできて眩しいなと思いながら、重い体を起こしてベッドから起き上がる。
全身がのように重く、昨日の出来事が夢ではないことを嫌でも実感させられた。
洗面所で顔を見ると、目元が赤く腫れ上がっていて、昨日の出来事が夢ではないのだと
現実だったのだと、改めて実感させられた。
鏡に映る自分の顔は、ひどく憔悴しきっていた。
目の下のクマが、俺の睡眠不足を物語っていた。
スマホの電源を入れてみたが、昨日の夜もそうだったが、もちろん仁さんからの連絡は一件もない。
通知画面は、あまりにも静かだった。
彼の名前が、連絡先から消えてしまったかのように感じられた。
「っ……」
あの人の温もりと、あの人の声と
あの人の匂いをまだ鮮明に覚えているのに…
脳裏に焼き付いた仁さんの笑顔が、俺の心を締め付ける。
このままもう二度と会えないのだろうか。
そう思うと、悲しくて仕方がなかった。
胸の奥が、ずきずきと痛む。
まるで、心臓を鷲掴みにされているかのようだった。
「……仁さん…」
ポツリと呟くと、また涙が零れそうになるので
頭を振って思考を切り替えることにした。
このままでは、何も変わらない。
大体、仁さんは兄さんと話せば「見えてくるものもある」と言っていた。
しっかり話し合えば、仁さんのことを認めてくれるかもしれない。
そう思った俺は、仁さんにまず自分の想いを伝えに行かなくてはと
自分の部屋を出て、隣室の仁さんの部屋のインターホンを押した。
指先が震える。心臓が、激しく脈打っていた。
しかし、仁さんが出てくる気配はない。
何度かインターホンを押してみるが、静寂だけが返ってくる。
耳を澄ましても、物音一つしない。
まだ寝ているのかな、と思ってもう一度インターホンに手をかけようとした
そのときだった。
「おや、花宮さんじゃないか」
という声が耳に届き
視線を横に向けると、そこには50代後半になる大家さんが立っていた。
大家さんは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
その笑顔が、今の俺にはひどく眩しかった。
「あ……大家さん…!おはようございます…っ」
俺は慌てて頭を下げた。
声が上ずっているのが自分でもわかる。
「おはよう、そんな慌ててどうかしたかい?」
大家さんが不思議そうに首を傾げる。
その視線が、俺の顔の憔悴に気づいているようだった。
「えっと、仁さんに用事があって、インターホン押してるんですけど…出てこなくて。休日の6時ですし多分まだ寝てるんですかね、ははっ……」
無理に明るく振る舞い、誤魔化そうとする。
「仁?…仁って……犬飼さんのことかい?」
大家さんの言葉に、嫌な予感が胸をよぎる。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「犬飼……はい、犬飼仁さんです」
俺は唾を飲み込み、大家さんの次の言葉を待った。
全身が、硬直したかのように動かない。
「それなら…急遽引っ越すことになったらとかで昨日の夜にはもう出ていったよ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は頭が真っ白になった。
まるで時間が止まったかのように、周囲の音が全て消え去った。
目の前が、真っ暗になった。
「引っ、越し……?昨日の夜に出ていったって、ほ、本当ですか?」
声が震え、信じられないという気持ちが全身を支配する。
まるで、夢でも見ているかのようだった。
「ああ、まるで夜逃げでもするみたいに急いでたよ」
大家さんの言葉が、俺の心をさらに深く突き刺した。
夜逃げ。
その言葉が、俺の心を深くえぐった。
「なんで………」
俺は呆然と呟いた。
その声は、ひどく掠れていた。
「詳しくはわからないけど……急な用事が入ったと
か言ってね」
それを聞いて、俺は心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
全身から血の気が引いていく。
つまり、仁さんは昨日の夜
俺の部屋から出て行ったあとすぐに荷物をまとめて出て行った……?
そんなことが頭をよぎって、不安が募っていく。
彼の行動の全てが、俺を避けるためのものだったのかと、絶望的な気持ちになった。
「あ、あの、仁さん、どこに引っ越すとか言ってませんでしたか…っ?」
前のめりになって訊く俺に、大家さんは困ったように
「いや…ここから1番遠いところに行くとしか言ってなかったね」と、言い淀んだ。
その表情には、俺への同情の色が見て取れた。
遠く…….
どうして…俺が来るかもしれないと思って…?
そう悟り、仁さんの優しさが、初めて俺を傷つけた瞬間だった。
彼の最後の言葉が、俺の心を締め付けた。
『楓くんがこれ以上苦しまないようにしたい』
「……っ」
言葉にならない感情が、胸の奥で渦巻く。
絶望、悲しみ、そして、ほんの少しの怒り。
「大丈夫かい?」
大家さんの心配そうな声が聞こえるが、俺はまともに答えることができなかった。
ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「…………は、はい。教えてくれて、ありがとうございます」
俺は大家さんに頭を下げると、その場を後にした。
足元がおぼつかない。
まるで、地に足がついていないかのように、ふらふらと歩いた。
それから俺は自分の部屋に戻ってからも、放心状態で立ち尽くしていた。
部屋の中は、仁さんの匂いがまだ微かに残っているような気がして、それがさらに俺の心を締め付けた。
彼の存在が、まだこの部屋に、そして俺の心の中に、深く刻み込まれているようだった。
(仁さん……)
仁さんと出会ってから半年ほどしか経っていないけれど、一緒に過ごした時間はとても濃密なものだったと思う。
この半年の間、色々あったが楽しい思い出ばかりだった。
彼の笑顔、優しい声、温かい手。
全てが鮮明に蘇る。
彼の温かい手のひらが、俺の頬に触れた感触が、今も残っているかのようだった。
「これからずっと一緒にいられると思ってたのに…」
そう呟くと、俺はすぐにでも仁さんを探しに行こうと服を着替えると、玄関に向かった。
心臓が、激しく脈打っていた。
しかし、扉に手をかけたところで、手を止めた。
(ダメだ…仁さんが俺のことを思って身を引てくれたのに、探そうとしちゃ……)