「では、参りますよ。橘様、その極悪人、新《あらた》のこと、頼みました!」
いや、何で、女房殿なのじゃ?崇高《むねたか》が、おるであろうに?と、髭モジャは、タマに向かって、ブツブツ言っているが、橘は、心配そうな顔をして、
「ええ、わかっていますよ。ああ、こんなに、急な話しになるとは、思ってもいなかったから……長良《ながら》も、紗奈《さな》も、気をつけて、落ち着いたら、便りをちょうだいね。それから、紗奈、兄様の言うことを良く聞いて、ああ、私の、その衣のままの方が、目だたなくていいわ、長良も、衣を、お変えなさい。道々、新《あらた》以上の悪党がいるはずです。目立っては、いけませんから……それから……」
と、先々の采配を行い始める。
「おー!そうじゃ!!ワシの衣を着て行くとよいぞ!!」
髭モジャが、やおら、衣を脱ぎ始めた。
きゃっ、と、紗奈が叫び、常春は、困りきった顔をする。
「お前様、いい加減になさいまし、そんな、汗じみた、牛臭い衣など、着れませんっ!」
「そこが、狙い目よ!匂いに負けて、誰も近寄らんじゃろ!」
もう!馬鹿なことを!と、橘は、髭モジャを叱り
「あのー、そろそろ、根性の別れは、終わりにしてください」
タマが、何故か苛ついている。
「ああ、そうだったな。いつまでも、根性じゃなく、今生の別れを行っている場合ではなかった。暗くなってはいけない、橘様、髭モジャ殿、本当に、お世話なりました」
「お世話になりました」
兄妹《きょうだい》は、橘と髭モジャに別れの礼を述べた。
思えば、色々ありすぎた。単に、同じ屋敷勤めと、片付けられないほど、本当の家族のような関係だった。
世話になった、と、その一言だけで片付けられない気分に押し潰された皆の心の内には、縁《えにし》、という、言葉が沸き起こっていた。
橘も、感極まったか、ハラハラ涙を流している。
髭モジャも、紗奈という戦友を失なうからか、しょんぼりとしていた。
「で!どうして、タマには、言葉がないのでしょう!タマにも、泣いてくださいよ!」
小さくはあるが、かなりの、怒り声が響いた。
カリカリと、タマは床を掻いている。
「もう、近道作りに忙しいのに、みんな、タマのこと、忘れちゃって、そもそも、タマだって、かなりの貢献してるはずなんですよー、それをねー、まったく、もってー」
なあ、髭モジャよ。
と、崇高《むねたか》が、再び手招く。
「あれ、あんなに、喋っていたか?否、喋るものなのか?」
「うーん、それは、ワシにもわからん。言われてみれば、初めは、ワン!としか、吠えてなかったのじゃ。おかしいのぉ」
「ふん、おかしくてもなんでも、もう、いいですよ、さあー、近道、できましたよ!おいでください!」
プンプンの、タマが言う、その足元を見ると、何か、光の輪が出来ている。
「ここを潜るのが、一番、はやいんです。常春様、上野様、ついて来てください」
タマは、カリカリと掻いていた場所に出来ている、光の輪、というべきか、穴へ、ストンと、飛び込んだ。
えーーー!!
床に、子犬が飲み込まれた?!
「髭モジャよぉーーー!我は、もう、がまんならんぞ!なんぞ、この屋敷わぁっっ!!」
崇高が、今にもひっくり返りそうな顔をしつつも、髭モジャへ、掴みかかった。
「な、なんだか、わからないし、かなりの、勇気はいるが、紗奈、しっかり捕まっていなさい」
常春は、きりりと、顔を引き締め、ふう、と、覚悟の息を吐く。
この、得たいの知れない穴へ飛び込めば良いのだ、ただ、それだけのこと……。
背から、兄様、普通に、道を行きましょう。私は、歩けます。と、妹が、心もとげに言って来る。
そこへ──。
──大丈夫。タマのことだから少し、失敗するかもしれないけどね、行っておいで──
と、また、どこからか、声が聞こえてきた。
「紗奈……」
「兄様……」
二人は、覚悟を決めた。聞こえてきた声に、背中を押されたのだ。
「では、皆様」
常春の言葉と共に、兄妹の姿は穴へ落ちるように、消えた。
「あっ!」
と、橘が、叫ぶ。
「女房殿、まあ、びっくりしたのは、わかる。ゆっくり休んでおきなされ」
髭モジャが、橘をいとう言葉をかけるが、橘は、そうではなくて!と、足元を凝視している。
「お前様!晴康《はるやす》様がっ!」
「おおっ!!なぜじゃ!!女童子達と、一緒ではなかったのかっ?!」
床には、五つ、六つの、童子が、丸くなって寝転んでいた。
「ああ、やはり、晴康様は……守恵子《もりえこ》様の事が、心配で……」
「そうか、残られたということか……じゃが、そうなると、女童子達は?」
「お前様、長良《ながら》と、あの紗奈ですよ。何かあっても、どうにでも切り抜けますよ。それに、タマもいることだし」
じゃなあー、そもそも、晴康様の御屋敷へ、行っただけの話しじゃし、心配はいらぬか!と、豪快に、髭モジャは、笑った。
解せぬのは、崇高で、髭モジャよーー!と、叫びつつ、その胸ぐらを掴び、これでもかと、揺さぶった。