テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
日比谷の濠端の警視庁は、赤煉瓦の、大きな箱のような建物だった。
受付で名を告げると、制服の巡査が、ぎょっとした顔で私を見た。妻殺しの侯爵の、三人目の妻。今朝の新聞にも、そう書いてあったのだろう。
長い廊下を、篠原さんと二人で歩いた。どこかの部屋から、怒鳴り声と、算盤の音が漏れてくる。
いちばん奥の、刑事部屋の、さらに奥。煙草の煙で霞んだ小部屋で、鬼塚警部補が、机の向こうに座っていた。
帽子は、部屋の中でも取っていなかった。
「来なさると思っとりましたよ、奥さん」
警部補は、太い眉の下から、私を見た。
「どこにおられるか、わかるようにしておいてくれと言いましたがね。わかりやすいところへ、自分から来なさった」
篠原さんは、廊下の長椅子で待つように言われた。扉が閉まると、外の物音が、急に遠くなった。
「大奥様が、床を上げなすったそうですな。家令が、ずいぶん慌てとったと、門番が言うとりました」
この人は、屋敷の門番にまで、耳を置いているのだ。
机の上に、風呂敷が広げてあった。
書斎の引き出しから持ち出された、紙と、欠片。
帝大の分析書。小夜子様の日記と、擦り出し。電報の送達紙。赤い封蝋の欠片。
そして、宛名のない封筒と、厚手の罫紙。
警部補は、その罫紙を、指で私のほうへ押しやった。
「この手紙。宇佐美が死ぬ前に、手紙、と言った。懐には、何もなかった」
くぐもった声が、低くなった。
「侯爵の引き出しから、出てきましたな。……奥さん。去年の十一月、本所の借家で、私は、心当たりはないかと訊いた。あんたは、いいえ、と言いなさった」
逃げ道は、なかった。
逃げるつもりも、なかった。
「私が、抜きました」
私は、まっすぐに警部補を見た。
「宇佐美先生が倒れたとき、胸の隠しから。誰にも、見せられませんでした。旦那様の字で、旦那様の名が書いてあったからです」
警部補は、黙っていた。
「申し訳、ございません」
畳ではなく、板の床に、私は手をついて頭を下げた。
長い沈黙のあとで、頭の上から、大きな溜め息が降ってきた。
「……肝の太い奥さんだ」
「今は、旦那様の字ではないと、知っています」
私は、顔を上げた。
「誰がなぞったのかも、見当はついております。でも、紙で証明できるまでは、申し上げません。見ていないことを口にすれば、私も、噂を書く新聞と同じになります」
警部補は、ふん、と鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
それから、帽子のつばを、指で押し上げた。
「検事は、この手紙を、侯爵が書いたものと読んどります。侯爵の字で、死因を偽れと書いてある。遺書の中身と、話が合いすぎる。その上、侯爵は二年も前から、葡萄酒の亜砒酸のことを知っとって、黙っとった」
「その手紙の字には、鉛筆の」
「溝がある。知っとりますよ」
警部補は、机の上の電灯を、ぐいと横に倒した。光が、罫紙の上を、斜めに走った。
墨の字の脇に、細い、銀色の溝が浮かんだ。
「見ましたよ。夜中に、一人で。だから、私は、侯爵がこれを書いたとは思っとらん。……だが、なぞったのが誰か、わからんうちは、検事は動かん」
*
警部補は、引き出しから、四つに畳んだ半紙を出した。
「それから、これは、わしの預かりものでしてな」
半紙を受け取る指が、震えた。
開くと、鉛筆の字が、一行だけあった。
食べているか。
横画がわずかに右上がりで、止めで、ぐっと押さえてある。払いは短く、迷いがない。
留置場の、硬い板の上で、この人は、これを書いたのだ。自分のことではなく、私が食べているかどうかを。
「侯爵は、ここへ来てから、出されたものを何ひとつ食わんのです。五日、水と白湯だけで」
警部補は、苦い顔で言った。
「看守が握り飯を差し入れても、手もつけん。わけを訊いたら、妻が食べているかどうかわかるまでは、とだけ言いなさった」
喉の奥が、熱くなった。
この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は。
婚礼の夜、あの人は私にそう言った。今、あの人は、誰も用意してくれない場所で、私の分まで、何も食べずにいる。
「返事を書くなら、書きなされ。わしは郵便屋じゃないが、ついでがある」
警部補は、そっぽを向いて、鉛筆を一本、机の上に転がした。
私は、半紙の裏に、小さく書いた。
卵焼きを、焦がしました。全部、食べました。
それから、少し考えて、一行足した。
旦那様も、召し上がってください。
半紙を畳んで返すと、警部補は、中を見ずに、外套の内隠しにしまった。
「これで、あの石頭も、握り飯くらいは食うでしょうな」
*
「遺書を、見せていただけますか」
警部補は、黙って、鍵のかかった戸棚から、薄い紙挟みを出した。
中から、一枚の紙が出てきた。
半紙ほどの大きさの、薄手の洋紙だった。邦文タイプの打ち物。漢字と片仮名の、硬い文字の列。
拙者儀、久遠寺侯爵ノ命ニヨリ。
会館の広間で、警部補が読み上げた文面だった。最後に、宇佐美恭平、と名が打たれ、その下に、朱の認印が一つ押してある。
「宇佐美の医院の診察室に、タイプが一台あったそうでしてな。診断書を打つのに使っとった。医院の家財は、借金の形に競売にかかって、とうに人手に渡っとる」
警部補は、紙の端を、太い指でとんと叩いた。
「検事は、宇佐美が、それで打ったと見とります。字の形も、よくある型だそうで」
邦文タイプは、平たい皿に並んだ何千本もの活字の中から、一字ずつ拾っては紙に打ちつける機械だ。書き手の癖が字に出る筆と違って、誰が打っても、同じ活字なら、同じ字になる。
だから、遺書をタイプで打つ。字には、人が出るから。
大事なお手紙は、御自筆に限ります。字には、人が出ますから。
いつか、家令室で聞いた穏やかな声が、耳の奥をかすめた。
私は、帯から鼈甲縁のルーペを抜いた。
紙を、窓の光に向ける。
まず、紙。どこにでもある、安い洋紙だった。透かしも、刷りもない。弥生堂に刷らせた、宇佐美医院の名入りの用紙ではなかった。自分の医院で打つのなら、手もとに、あの用紙がいくらでもあったはずなのに。
それから、字。
活字の形を、ルーペで追う。明朝の、細い横画。払いの先の、わずかな丸み。
月島型だった。
屋敷の家令室の機械と、同じ型。
胸の奥が、冷たくなった。けれど、警部補の言う通りだった。月島型は、この国の邦文タイプのほとんどに使われている型だ。宇佐美医院の機械が、同じ型でも、少しもおかしくない。
字の形だけでは、どの機械で打ったかは、わからない。
一字ずつ、追っていった。
拙。者。儀。
活字は、一本ずつ、癖を持っている。鋳たときの湯のまわり、使いこんだ角の丸み、どこかにぶつけた傷。何千本の中の、その一本にしかない顔がある。
久。遠。寺。
私は、ルーペの縁を、目に押しつけた。
侯。
ルーペが、止まった。
人偏の、侯。
右上の、短い点。
その角度が、ほかの月島型の字の点より、髪の毛一筋ほど、立っていた。
私は、息をするのを忘れた。
知っている。
この点を、私は、知っている。
今年の一月十日、家令室の板の間に膝をついて、砥石で足を削って、皿の升目に、すとんと落としこんだ一本。
嫁入り道具の、父の店の、活字の木箱から出した、本郷型の侯だった。
活字皿をひっくり返して青ざめていた百合絵様。家令室の戸口で、初めて笑った冬馬様。器用なものだ。
あの日から、あの家の機械で打たれる侯爵の侯は、みな、この侯になった。
「奥さん」
警部補の声が、遠くで聞こえた。
「どうしなすった。顔が、真っ白ですぞ」
私は、ルーペを下ろせなかった。
二行目の、もう一つの侯爵の侯にも、同じ点があった。髪の毛一筋ほど、立った点。
宇佐美先生が死んだのは、去年の、十一月だ。
この侯は、今年の一月十日まで、あの家のどこにも、存在しなかった。
コメント
1件
ああ、もう、胸がぎゅっと詰まりました……。警部補との緊張感あふれるやりとりから、あの「食べているか」の一行で全部が変わった感じ。留置場で何も食べずにいる旦那様を思うと切なくて、でも最後のルーペのシーンで「この侯は存在しなかった」――もう鳥肌でした。字の点一本が、こんなに重い証拠になるんですね。続きが気になって仕方ないです。