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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「この侯は、あの家にしかない侯です」
私がそう言うと、鬼塚警部補は、しばらく黙って私の顔を見ていた。
それから、遺書の紙を、窓の光にかざした。
「わしには、どれも同じ侯に見えますがな」
「はい。私にしか、わからない違いです」
私は、一月十日の家令室のことを、全部話した。ひっくり返った活字皿。右上の欠けた侯。嫁入り道具の木箱から出した、父の店の本郷型の侯。砥石で削った足。
警部補は、聞き終えると、太い指で、机をとんとんと叩いた。
「奥さんの話だけじゃ、検事は動かん。身内の話は、身内の話ですからな」
「紙を、そろえます」
私は言った。
「私の話ではなく、紙に、話をさせます」
警部補は、帽子を被り直して、立ち上がった。
「明後日の朝、検事を呼びます。それまでに、そろえなされ。家令室の帳簿は、わしのほうで押さえる」
警視庁を出たその足で、私は、日比谷の郵便局から電報を打った。
宛先は、鎌倉の由比ヶ浜ホテル。藤堂麗子様。
フジンノマド イチガツノトウショ ゲンポン イソギモトム シオリ
翌日の昼過ぎ、警部補の部下が二人、屋敷へ来た。
家令室の帳簿を、預かっていくという。
私は、大奥様の居間の障子の隙間から、それを見ていた。
真柴さんは、少しも慌てなかった。帳簿棚から、大正十一年と十二年の帳面を自分で抜き出し、埃を払って、両手で刑事に差し出した。
「どうぞ、お改めくださいませ。この家の金の出入りは、一銭たりとも、間違いはございません」
刑事たちが帰ったあと、真柴さんは、しばらく家令室の窓辺に立っていた。
窓際の、邦文タイプライターの前に。
活字皿の上に、白い指が、そっと置かれていた。
*
八月三十日の朝、警視庁の二階の、検事の控え室。
細長い机の向こうに、若い検事が座っていた。有坂、という名だった。痩せていて、金縁の眼鏡の奥の目が、ひどく冷たかった。
「侯爵夫人が、夫の無実を証すために、御自分で紙を拵えてこられた。そういうことでなければよいのですが」
私は、何も答えなかった。
紙に、答えさせればいい。
机の端に、警部補が、腕を組んで立っていた。部屋の隅の長椅子に、百合絵様が、海老茶の袴で、膝を揃えて座っている。篠原さんが、木箱を抱えて入ってきた。
私の、嫁入り道具の、活字の木箱だった。
私は、木箱の蓋を開けた。鉛と、古いインクの匂いが立ちのぼる。
五号の明朝の束を、脇へよける。その下に、半紙の小さな包みが一つ。
包みを開くと、鉛の活字が二本、並んで出てきた。
「一本は、一月十日に、家令室の機械の皿から抜いた、元の侯です。右上が、欠けております」
有坂検事が、眼鏡を押し上げて、覗きこんだ。
「もう一本は、私が皿に入れた侯と、同じ母型から鋳た、兄弟の活字です。父の店で、同じ日に、同じ型から生まれたものです」
「母型とは」
「活字を鋳るときの、鋳型の字の部分です。同じ母型から鋳た活字は、兄弟のように、同じ顔をしております。点の角度も、はねの癖も」
警部補が、机の上に、警察の書類に使うスタンプ台を置いてくれた。
私は、兄弟の侯の字面に、黒いインクを薄くのせた。白い紙に、まっすぐ押しつける。
侯、の一字が、紙に残った。
私は、それを遺書の横に並べ、ルーペを、検事に差し出した。
「右上の、短い点を御覧ください」
有坂検事は、長いあいだ、ルーペを覗いていた。
遺書の侯。押したばかりの侯。また、遺書の侯。
「……同じだ」
低い声だった。
「点が、ほかの字より、わずかに立っている」
「父の店の、本郷型の癖です。家令室の機械は、月島型。月島型の侯の点は、もっと寝ております」
私は、欠けた元の侯も、インクにつけて押した。肩が抜けて、半分しか出ない侯。けれど、残った点の角度は、はっきりと寝ていた。
「遺書の侯は、欠けておりません。ですから、この欠けた侯で打ったのでもない。月島型の、ほかのどの侯でもない。本郷型の侯で打たれています」
*
警部補の部下が、風呂敷包みを運びこんだ。
家令室から押さえた、大正十一年と大正十二年の帳簿だった。
厚い帳面のところどころに、タイプで打った細長い紙が、糊で貼ってある。月々の支払いの、添え書きだった。
私は、頁をめくった。
大正十一年、十一月。侯爵家御用、炭代。
十二月。侯爵家御用、呉服代。
大正十二年、一月九日。侯爵家御用、年始御礼。
どの添え書きの侯も、点が、寝ていた。
「宇佐美先生が亡くなった十一月も、その次の十二月も、年が明けた一月九日も。この家の機械の侯は、元の、月島型の侯です」
私は、次の頁をめくった。
一月十一日。侯爵家御用、炭代。
その侯の点が、髪の毛一筋ほど、立っていた。
「一月十日から、この家の侯は、変わったのです」
有坂検事は、帳簿と遺書を、何度も見比べた。
それから、顔を上げた。
「帳簿の添え書きは、家令が打つものでしょう。日付は、後から何とでも書けます。それに、奥様が一月十日に差し替えたという、そのこと自体を、誰が証明するのです」
「あたくしよ」
長椅子から、百合絵様が立ち上がった。
「お義姉さまが差し替えたのは、あたくしが、活字皿をひっくり返したからだもの。皿を持ち上げたのは、あたくし。お義姉さまは、半刻で全部、元に戻してくださったの」
「妹君の証言では、身内の」
検事が言いかけたとき、扉が、ノックもなしに開いた。
*
断髪に、真紅の口紅。黒い絹の洋装に、長い真珠の首飾り。
麗子様だった。
「電報を見て、昨日の夕方の汽車で帰ってきたのよ。今朝は大庭さんを叩き起こしたわ。電報なんて、色気のないものを寄越すから」
麗子様は、手にした封筒を、検事の机の上に、ぱさりと置いた。
「『婦人の窓』の編輯部から、借りてきたわ。大庭さんに、無理を言って。読者の声の欄の、投書の原本」
封筒から、一枚の紙が出てきた。
邦文タイプの打ち物。白鷺の一女学生。三流新聞の記事に惑わされず、久遠寺侯爵夫人の、真のお人柄を。
紙の右上に、紫のゴム印が、斜めに押されていた。
大正十二年一月十二日受付 婦人の窓編輯部。
「お屋敷の身内が、日付を書き換えられる紙じゃないわよ。銀座の、編輯部の印ですもの」
麗子様は、細い眉を上げた。
「勘違いなさらないで。あなたを助けに来たわけじゃないの。千鶴さんのためよ」
私は、投書の一行に、ルーペを当てた。
久遠寺侯爵夫人。
侯の、右上の点が、立っていた。
一月十日の夕方、百合絵様が、新しい侯で打った一字。お鈴が、坂下の郵便局へ走って出した、一通。
「これが、この家の機械で本郷型の侯が打たれて、外へ出た最初の一枚です」
私は、紙を、検事の前に置いた。
「一月十日より前に、この侯で打たれた紙は、この世に、一枚もありません」
有坂検事は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
長い沈黙のあとで、言った。
「宇佐美恭平が死んだのは、大正十一年十一月十二日。この遺書は、大正十二年の一月十日より後に、久遠寺家の機械で打たれた」
検事は、眼鏡をかけ直した。
「死人は、タイプを打たない。……これは、偽物だ」
百合絵様が、両手で口を覆った。麗子様は、煙草ホルダーを指に挟んで、火を点けずに、くるりと回した。
「侯爵は、釈放します。手続きに、明日いっぱいかかる。明日の夕刻には」
私の膝から、力が抜けた。篠原さんが、慌てて椅子を引いてくれた。
「だが」
検事の声が、冷たく続いた。
「これを打った者の名は、まだ、この紙のどこにも書いていない」
検事が部屋を出ていったあと、警部補が、思い出したように言った。
「そういえば、侯爵は、昨夜、握り飯を二つ食いましたぞ。奥さんの返事を読んで、しばらく黙っとって、それから」
警部補は、口の端を、わずかに曲げた。
「焦げとらんのは物足りん、と、看守に文句を言うたそうです」
百合絵様が、吹き出した。私は、笑おうとして、うまく笑えなかった。
それから、鬼塚警部補が、帽子のつばを押し上げて、私の前に立った。
「奥さん」
くぐもった、低い声だった。
「屋敷で、一番タイプを使うのは、誰だ」
私は、答えなかった。
帳簿の、あの一分の狂いもなく揃った添え書きを、毎月、誰が打っているのか。
私は、もう、その名を知っていた。
コメント
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いやもう、この回ガチで震えたわ……! 活字の「侯」の点の角度とか母型の兄弟とか、そういうディテールで嘘を暴くスタイル、解像度エグすぎる。「紙に話をさせる」って宣言から最後まで、伏線の回収が美しすぎて鳥肌立った。ラストの「一番タイプを使うのは誰だ」の問い、めっちゃ怖いし続きが気になりすぎる🔥 百合絵様と麗子様の連携も熱かった!