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正直、ここまでの生い立ちだとは思わなくて衝撃を受けていた。
「子供の頃は別だけれど、今はもう父を恨んではいない。大学まで行かせてもらって不自由のない生活をさせてもらったし、愛情が皆無というわけではなかったんだろ。それだけわかれば十分だ。今更うんぬん言う歳でもないし、働いてみてあの時の父の状況をおもんばかれるようになったし」
そう他人事みたいに話す課長だけれど…本音ではない気がした。
軽い口調も表情も、無理矢理作ったようにしか見えなかったから。
歳なんて関係ない。大人になったって社会人になったって、家族への想いは薄れるものじゃない、いやむしろ強くなるんじゃないかと思う。
家族と遠く離れて暮らして仕事やストレスに追い立てられる毎日の中で、家族のことを思い出す機会はすくない。
だからわたしは料理をする。家庭の味は家族との思い出だから。
懐かしい味があるということは、懐かしい場所があるということ。遠く離れていても寂しいと思っても慣れ親しんだ味がその場所を思いださせてくれる。
安らぎを与えてくれる。
独りじゃないって確認できるから。
でも課長はずっとその味を知らなかった。そして、ずっとこの部屋にひとり。広くてモデルルームみたいに素敵だけれど寂しい部屋にひとり…。
「課長はお父様に会うことはあるんですか?」
「いや…たまにしか会わないかな。近況報告をするくらいで」
わたしは真剣な眼差しで、じっと課長を見つめた。
今ばかりは課長が照れるように眉をひそめている。
「余計なお世話かもしれないですけれど、課長はおもっとお父様に会ってお話するべきです」
「え?…話すことなんてないけど」
「だからです。血をわけた親子なのに、話すことが無いなんて寂しすぎます。だって、課長にとってはたったひとりのお父さんだし、お父さんにとっても、課長はたった一人の息子なんですよ」
ふっ、と課長は苦笑いを浮かべた。
「父には他にも子がいる。なにも俺一人が特別というわけじゃないさ」
「でも…!」
「いいんだ。自分から話しといてなんだけど、父の話はこれで終わりだ」
「…」
「悪かったよ。なんだか、キミには話してしまいたくて…」
「じゃあせめて…わたしが課長の家族になります」
「え…」
課長の目が大きく見開いた。
その顔を見て、自分がとんでもないことを言ってしまったのに気づいた。
あああ、なにを言ってるの。これってまるで
「プロポーズ?」
「ち…!そういう意味じゃなくて、か、家庭の味をつくってあげますってことでけして」
しどろもどろになりながら言葉にしたわたしは、次の瞬間、息を止めてしまった。
課長の手がわたしの頬を包んだから。
親指が唇をなぞる。何度かやられたこの動き。
だけれども、これほど息がとまりそうになったのは初めてだった。
いつも余裕の笑みを浮かべているのに、今の課長はみとこともないような、真剣な、熱の籠った眼差しで刺し貫いたから。
「あの夜、キミと出会えたことは。今思えば、これまでの人生の中で一番の幸運だったかもしれないな…」
冗談めいた口調はそこにはない。低く掠れるような声は、自分でも手に余す想いに喘いでいるような苦しさがあった。
「キミがそういうのなら、この関係は半永久的につづくよ。俺はキミを離さない」
張り詰めた表情をしたきれいな顔がゆっくり近づいてきて。
胸が張り裂けそうで苦しくて、息をもとめたかったけれど、唇を開くことはできなかった。
課長の唇が近づいて来ているから―――。
「わ…たし、も…帰らなきゃ…」
どうにか突っぱねようと胸に両手を当てたけれど、
「課長…」
ぎゅうと仕舞いこまれるように抱き締められてしまった。そしてそのままソファに倒れられる。
かすかなワインの香りがわたしをつつんで、痺れさせる。
「は、なしてください…」
「だめだ。俺のすることはなんでも受け入れる―――これも条件だったろ」
ワインよりももっと濃厚な声が、耳を刺激した。
「帰したくない。今夜は俺といろ」
そん…な…。
だめ…。
だって、わたしは知っているもの。
前に見付けたポーチ。
あれがもう洗面所からなくなっていることに。
課長はやさしい人。でも、恋をしていい相手ではない。
わたしは課長のような人と恋を楽しむような器用なことはできない…。
「おねがいします…」
泣きそうになるのをこらえながら、わたしは課長の胸に懇願した。
「帰してください…離して…」
「だめ。俺の命令は絶対だろ」
手首をつかむ手の力が強くなる。
束縛も辞さないくらいに乱暴な手。
攫われように心が陥落しそうになる。けれどだめ、だめ―――。
くすり
笑い声が小さく耳を打った。
「そんなに震えられちゃ、帰さないわけにはいかないな」
「…」
「規則違反だけれど、今回は特別に見逃してあげる。」
課長はゆっくり離れるとジャケットを羽織った。
「送っていくよ」
まだ終電は残っている時刻だけれど、もう遅いからと言って、課長は社の前にタクシーをとめてくれた。
「本当に大丈夫ですよ…?悪いです」
「だめだ。ちゃんと家の前まで送ってもらうこと。あと、着いたらメールして」
押し込むように乗せられて、運転手さんに先にタクシーチケットを渡されては、もう拒めない。
「ありがとうございます…」
「俺の方こそ」
「ごめんね」と続け、課長の手がドアを閉めた。
タクシーはそのまま発車してしまった。ガラスごしに振り返ると、課長が遠のくのが見えた。
冬を迎え、今夜は寒い夜だった。
ジャケットだけの課長は、タクシーが左折するまで見送っていた。