テラーノベル
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瑠璃が2328号室のドアチャイムを押して待つ事数十秒、その白い扉がガチャリと開いた。
するとワイシャツ姿の黒木の向こう側に、23階から臨む夕暮れの日本海が見えた。
「わぁ、綺麗!」
「え」
「係長、窓の外、見ても良いですか!?」
瑠璃は小さな旅行鞄を床に置くと、パンプスを脱いで窓へと駆け寄った。
何処までも遮るものがない金沢市の海側の夕暮れ、濃紺から薄青のグラデーション。
空と黒い水平線の隙間にオレンジ色の波が煌めいて見えた。
階下を見下ろせば金沢駅のもてなしドームのアルミの格子から白いLEDライトが漏れ、タクシープールには黄色や緑色の行燈が浮かんでいる。
交差点を渡る人は蟻よりも小さく、胡麻粒のようだ。
黒木はため息を吐いて瑠璃が放り出した小さな旅行鞄をクローゼットに仕舞うと、脱ぎ散らかしたパンプスを揃えて備え付けの白いスリッパを手に窓際に近付いた。
「瑠璃さん」
「はい?」
「それは意識的に? それとも天然ですか?」
「え?」
黒木はスリッパを瑠璃に手渡すと、左手を腰に添え、右手で緩いオールバックの髪を撫で付けた。
瑠璃がキョトンとしていると、その両腕が伸びて華奢な身体を抱き寄せた。
「瑠璃さん、わざとはしゃいでいるんですか?」
「え、いえ。この景色が綺麗で、つい……」
「そうですか」
煌びやかな窓の外から室内へ目を移すと、そこは落ち着いた色合いで纏められた静かな空間が広がっていた。
暖色系の織りのカーペットにシェードランプの仄かな灯り、焦茶のクッションが転がるクイーンサイズのベッドの白いシーツには皺一つない。
「あ……」
瑠璃は頰を染めた。
自分はガラス窓に広がる景色を堪能するためにエレベーターのボタンを押したのでは無い。
この目の前の男性と一夜を共にするために2328号室のドアチャイムを押したのだと、黒木の顔とベッドを交互に見た。
「え、と……」
もしかしたら瑠璃は黒木が指摘した通り、恥ずかしさを掻き消すために無意識にはしゃいで見せたのかもしれなかった。
瑠璃の目が左右に泳いでいると、黒木は両腕に力を入れて正面を向かせた。
オフィスでの真剣な眼差しとはまた違うその雰囲気に、瑠璃は程よい厚みの唇をやや開いたまま、その瞼をそっと閉じた。
熱が近付いて来るのを感じた。
いつものしっとりとした薄い唇が重なり、それは軽く啄み始めた。
(あ、なんだか……いつもと違う、かも)
瑠璃の上唇を啄んだ黒木の唇は下唇へと向かい、大きく口を塞いだ。
(やっぱり、違った)
黒木の手のひらが瑠璃の栗色の緩やかなウェーブを撫で、頰に触れた。
これまでと違う深い口付けを終えた二人は互いの目を見てもう一度唇を啄み始めた。
黒木の吐く息が深くなり、首筋に顔を埋める。
それまでだらりと垂れていた瑠璃の腕がそろそろと黒木の背中に回され、ワイシャツの背中をギュッと握った。
「瑠璃さん」
「は、はい」
「嬉しいです」
「は、はい」
「嬉しいです」
黒木はもう一度瑠璃の身体を強く抱きしめると、そっと離れた。
「お腹、空いたでしょう」
「え?」
「中華料理、予約してあるんです」
「中華」
「はい、29階、夜景が綺麗だと思いますよ」
「中華」
「ラーメンは無いかも知れませんが」
瑠璃はワンピースの上から脇腹を掴むと眉間に皺を寄せた。
「係長、私をどれだけ太らせるつもりですか」
「え?」
「係長とご飯食べるようになって、私、2kgも太ってしまいました」
「それは、申し訳ない」
「でも、もう少し太っても良いですか? 中華好きなんで」
「もちろん」
黒木もその脇腹を掴んでニヤリと笑った。
「あ、ちょっと、やだ!」
「ぷにぷに」
「やめてください!」
「ぷにぷに」
瑠璃はその報復に黒木の脇を思い切り両手でくすぐった。
笑い声で賑やかな2328号室は、もうじき夜を迎える。
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