テラーノベル
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しっとりと落ち着いたジャズが流れる
少し薄暗いバーのカウンター席。
琥珀色の照明がグラスに反射し、心地よい静寂が二人を包み込んでいた。
目の前には、氷がカランと音を立てるカクテル。
そのグラスを指でなぞりながら、俺はまだ信じられない思いで尊さんを見上げた。
「じゃあ、たけるさんが今日誘ってくれたのって……デートだったんですね?」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
まさか、あの尊さんが、俺をデートに誘うなんて。
夢でも見ているんじゃないかと、何度も自分の頬をつねりたくなった。
尊さんは、俺の動揺を面白がるように、口元に微かな笑みを浮かべた。
その余裕のある表情に、俺の心臓はさらに大きく跳ねる。
「それ以外ないだろ」
その短い一言が、俺の頭の中で何度も反響した。
デート、尊さんと、俺が。信じられない。
「でも…どうして?俺、たけるさんみたいにバリバリ仕事できる訳でもないし、たけるさんに迷惑ばっかかけてるのに……たけるさんに好きになって貰えたの、信じられなくて」
俺は、自分の至らなさを並べ立てた。
仕事ではミスばかりで、いつも尊さんにフォローしてもらっている。
そんな俺が、どうして尊さんの目に留まったのか。
まさか恋愛対象として見てもらえるなんて、考えたこともなかった。
不安と喜びが入り混じった感情が、胸の奥で渦巻く。
尊さんは、そんな俺の言葉を遮るように
静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「俺はお前のそういうとこが好きになったってだけだ」
「え…?」
俺がぐずぐずと言いよどんでいると、尊さんはカウンター越しに手を伸ばし
俺の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
その大きな手のひらが俺の髪を乱す感触に、俺は思わず目を閉じる。
「お前は毎日一生懸命に働いてるだろ、どんだけミスして俺に叱られてもめげないしな」
「そのひたむきな姿勢が俺の目には新鮮に映った。それに……」
尊さんの指が、俺の頬を伝い、目尻にそっと触れた。
その視線は、まるで俺の心の奥底を見透かすようで、ゾクッとした。
「雪白が甘すぎて、一気に虜になった」
そう言って、尊さんは俺の目尻を指でそっとなぞった。
その仕草と表情はとても甘く、普段の仕事で見せる厳しさとはかけ離れた
まるで別人を見ているようだった。
俺は、その甘さに耐えきれず、思わずうつむいた。
顔が熱い。
きっと、耳まで真っ赤になっているに違いない。
「雪白、顔上げろ」
尊さんの低く、しかし命令的な声に
俺は抗うことなんか出来なかった。
彼の言葉には、いつも不思議な力がある。
ゆっくりと顔を上げると、尊さんの整った顔立ちがすぐ目の前にあって
その完璧な造形に心臓が大きく跳ねた。
彼の視線が、俺の瞳を真っ直ぐに捉える。
「その…甘いって、俺がケーキだから…ですよね?」
俺は、精一杯の平静を装ってなんとか言葉を絞り出した。
自分の第二次性が「|ケーキ《生クリーム味》」だから、そう言われたのだと自分に言い聞かせた。
そうでなければ、この甘い雰囲気の理由が分からなかった。
尊さんは、俺の言葉に少し呆れたように
しかしどこか楽しそうに目を細めた。
「あぁ…正直、お前が場酔いしたあの夜、手なんか出す気はなかったんだけどな」
あの夜
会社の飲み会で、俺が酔いつぶれてしまった夜のことだ。
記憶は曖昧だけど、確かに尊さんが俺を介抱してくれたのは覚えている。
「お前が好きだとか言うから…喰いたいって思ってしまった、自分のものにしたいって」
尊さんの声が、さらに低く、そして熱を帯びた。
その言葉は、俺の想像を遥かに超えていた。
俺が、好きだと言った?
あの夜、何を口走っていたんだ、俺は。
顔から火が出そうだ。
しかし、それ以上に、尊さんが俺を「喰いたい」
「自分のものにしたい」と思ってくれたという事実に、全身が痺れるような衝撃を受けた。
「…っ」
言葉が出ない。
ただ、尊さんの真剣な眼差しに、俺は息を飲む。
彼の瞳の奥には、強い欲望と
同時に俺への気遣いのようなものも見て取れた。
「雪白……俺が怖いか?」
その問いに、俺は小さく首を横に振った。
「怖くないです……!」
俺は、即答した。
そして、あの夜の出来事を思い出し、意を決して口を開いた。
「そ、それに俺、あのとき居酒屋でちょっと意識あって…同僚のフォークの人に俺、輪姦されそうになってたところ、助けてくれたのたけるさんだけだったんです」
あの時の恐怖が蘇る。酔って意識が朦朧とする中
複数のフォークに囲まれ、体が硬直した。
その時、尊さんの声が聞こえ
彼が俺を庇ってくれたのだ。
あの時の尊さんの胸は、俺にとって何よりも頼りになるものだった。
「だから俺、そのあとたけるさんに抱いて貰えたの、驚いたけど、嬉しくて…付き合えたらいいのにって淡い期待抱いてたんです…」
あの夜、尊さんが俺にキスをして抱いてくれたとき
驚きと同時に、言いようのない安堵と喜びがこみ上げてきた。
あの絶望的な状況から救い出してくれた尊さんに
抱かれることに何の抵抗もなかった。
むしろ、このまま彼に守られていたいと、強く願ったのだ。
尊さんは、俺の告白に、少し眉をひそめた。
俺が危ない目に遭っていたことを分かっていたのか
怒りのような感情が彼の瞳に宿るのが分かった。
しかし、すぐにその表情は和らぎ、小さく息を吐いた。
「まあ、順番はアレだったな」
尊さんの言葉に、俺は思わず苦笑した。
確かに、出会ってすぐに
しかも酔った勢いで、という始まりはあまりにも型破りだ。
「雪白は、俺でいいのか?」
彼の問いは、俺の心を揺さぶった。
尊さんは、こんなにも完璧な人なのに
俺のような人間で本当にいいのかと尋ねてくれている。
その優しさに、胸がいっぱいになった。
「たけるさんがいいんです。俺、Mだから…たけるさんみたいな人に抱かれたいって思ってましたから」
「あっ、も、もちろんたけるさんのこと好きな気持ちもたくさんあります!」
「体だけじゃなくて…!
その…っ、う、上手く言えないんですけど…っ」
俺は、興奮と照れで言葉が支離滅裂になる。
Mだとか、抱かれたいとか
つい本音を口にしてしまって顔がさらに熱くなるのを感じた。
尊さんのことが好きだという気持ちを
もっときちんと伝えたいのに
焦れば焦るほど言葉が出てこない。
尊さんは、そんな俺の様子を見てふっと笑った。
「ははっ…テンパリすぎだろ」
その笑い声は、心地よくて、俺の緊張を少しだけ和らげてくれた。
「す、すみません。つい…」
「ま…俺に触られても怖くないなら、それでいい。」
尊さんの指が、再び俺の頬を優しく撫でる。
その温かい感触に、俺は安心したように息を吐いた。
「怖いとかないですよ!だってたけるさんにならどこ触られても気持ちいいから……」
俺は、無意識のうちに心に浮かんだ言葉をそのまま口に出していた。
その瞬間、尊さんの手がピタリと止まる。
「……お前なぁ、そういうのは煽ってるって言うんだよ」
尊さんは少し眉をひそめてそう言うと、俺の頬を撫でていた手をそのまま滑らせ
俺の唇に触れた。
そしてそのまま、ゆっくりと唇を重ねてくる。
優しい口付けに、体中が甘く痺れていくのが分かった。
尊さんの唇は柔らかく、温かくて、俺の心を溶かしていくようだった。
ゆっくりと離れる唇を見送りながら、俺は思わず微笑んでいた。
「ん……たけるさんのキス、好き……」
「はあ、あんま可愛いことばっかり言うなよ」
尊さんの声には、少し呆れたような響きがあったが
その瞳の奥には、隠しきれない甘い光が宿っていた。
「本心ですよ……?」
俺は、尊さんの瞳を真っ直ぐに見つめ
もう一度、彼のキスが好きだと伝えたかった。
「……知ってる」
尊さんは小さく笑って、俺の頭をもう一度
今度はもっと優しく撫でた。
その手つきは、まるで大切な宝物を扱うようで
俺の心は温かい光に包まれた。
この人が、俺の恋人になる。
その事実が、ゆっくりと
確かな実感を伴って、俺の心に染み渡っていった。
バーでの甘い夜から数日後
俺たちの関係は少しずつ、しかし確実に進展していた。
毎日のように尊さんから連絡が来るようになり、仕事が忙しく、まだお家デート以外はできていないが
仕事帰りに一緒に帰ると、人気が無いのをいいことに手を繋いでくれたり、俺の家に来て、ただゆっくりする日もあって
会社でミスを連発してしまった日に
落ち込んでいると「改善策は教えただろ?次から気をつければいい」と優しく頭を撫でてくれたり
いつもより仕事が早く終わると、帰りに俺の好きなきのとやのスイーツを奢ってくれたりする。
会社では相変わらず「主任」と呼ぶけれど、二人きりの時には「たけるさん」と呼ぶことを許されている。
その秘密めいた関係が、俺の日常に甘い刺激を与えていた。
◆◇◆◇
そんなある日、週明けの月曜日
朝から会議が立て込み、部署全体がピリピリとした空気に包まれていた。
俺も、先週の自分のミスを挽回しようと、いつも以上に集中して業務に取り組んでいた。
そんな中、どうしても尊さんに確認したい資料があり、彼のデスクへと向かった。
尊さんは、いつものように完璧な姿勢でパソコンに向かい、キーボードを叩いていた。
その横顔は真剣そのもので、話しかけるのを躊躇うほどだ。
しかし、急ぎの案件だったため、意を決して声をかけた。
「主任、あの、こちらの資料の件で───」
言いかけたその時、尊さんが顔を上げた。
俺の視線と彼の視線がぶつかる。
その瞬間、なぜか、昨夜の甘いキスが脳裏をよぎった。
尊さんの唇の感触、彼の腕の温もり
そして俺を呼ぶ優しい声。
「───たけるさん、これって……」
「……は?」
口から出た瞬間に、俺はハッと息を呑み、両手で口を覆った。
しまった。やってしまった。
周りの空気が、一瞬にして凍り付いたのが分かった。
フロアに響き渡るキーボードの音や、電話の声が
まるでスローモーションのように遠ざかっていく。
隣の席にいた同期が、目を見開いて俺を見た。
「え、今、雪白…鬼上司を名前呼びした…?」
「おま、殺されるぞ!!」
「マジかよ、こいつ…怖いもの知らずにも程があんだろ」
コソコソと、しかしはっきりと聞こえる囁き声が俺の耳に届く。
普段は温厚な先輩たちも、この時ばかりは戦々恐々としているのが伝わってきた。
尊さんが「鬼上司」と呼ばれていることを、改めて痛感する。
そして、その「鬼上司」を
俺は今、公衆の面前で名前呼びしてしまったのだ。
尊さんは、一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
しかし、その瞳の奥には、ほんのわずかな驚きが宿っているように見えた。
彼はゆっくりと椅子から立ち上がると、一つ、大きく咳払いをした。
その音だけで、フロアの全ての話し声がピタリと止まる。
まるで、彼の咳払いが号令であるかのように。
「雪白」
尊さんの声が、静まり返ったフロアに響き渡る。
その声は、普段よりも一段と低く
そして冷たかった。
「ちょっと来い」
その言葉は、まるで鋭い氷の刃のように、俺の心臓を直接貫いた。
反射的に身体が硬直し、脳裏には最悪のシナリオが瞬時に駆け巡る。
俺は、まるで糸で操られているかのように、尊さんの後を追って立ち上がった。
その瞬間、背筋を冷たい汗が伝い、シャツの生地が肌に張り付く不快感が、今の俺の精神状態を如実に物語っていた。
オフィスフロアの喧騒が、遠くのBGMのように耳に届く。
キーボードを叩く音
電話の応対
同僚たちのヒソヒソ話
それら全てが、まるで俺とは無関係の世界で繰り広げられているかのように感じられた。
周りの視線が、痛いほどに俺に突き刺さる。
気のせいだと分かっていても、誰もが俺たちの異様な雰囲気に気づき
好奇の目を向けているように思えてならなかった。
まるで、これから処刑場へ向かう罪人の気分だ。
足が鉛のように重く、一歩踏み出すごとに
その重みが心の奥底に響く。
尊さんの背中は、いつもよりも大きく
そして遠く感じられた。
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