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尊さんは、フロアの奥にある
普段は誰も使わない資料室へと足を進めた。
そこは、まるでこのオフィスの「禁断の領域」とでも言うべき場所だった。
滅多に開かれることのない重厚な木製の扉が、ギィッと耳障りな音を立てて開く。
その音は、まるで俺の運命の扉が開かれる音のようにも聞こえた。
中は薄暗く、窓から差し込む光も届かないのか
昼間だというのに薄暗い。
長年閉じ込められていたような、古びた紙と埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐる。
尊さんが中に入ると、俺も恐る恐るその後に続いた。
一歩足を踏み入れるごとに、床板が軋む音がする。
そして、背後で「ガチャン」と、扉が閉まる重い音が響き渡った。
資料室の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
まるで、時間が止まったかのような静寂。
その静けさが、かえって俺の心臓の鼓動を大きく響かせ
耳の奥でドクドクと不規則なリズムを刻んでいるのが分かった。
尊さんが、ゆっくりと俺の方を振り返る。
その顔は、やはりいつものように無表情のままだ。
しかし、その視線は俺の心臓を鷲掴みにするような有無を言わせぬ力を持っていた。
その瞳の奥に、何が宿っているのか俺には全く読み取れない。
今度は、誰にも聞かれない、二人きりの空間で。
逃げ場のない密室で。
「…あっ、あの、たけるさ……主任、ご、ごめんなさっ」
しかし、尊さんは俺の言葉を遮るように、低い
はっきりとした声で俺の名前を呼んだ。
「雪白」
そして次の瞬間には、彼は俺を壁へと追い詰めた。
背中に固い壁の感触
冷たい石膏ボードの冷たさが、俺の熱くなった背中にじんわりと染み渡る。
尊さんの右手がドン、と俺の顔のすぐ横の壁につく。
その衝撃に、俺の身体はびくりと震えた。
至近距離に迫る彼の体温、そして吐息が俺の頬をかすめる。
彼の香水の微かな香りが、俺の嗅覚を刺激し、全身を駆け巡る。
心臓がドクドクと不規則な音を立てるのが、自分でもはっきりと聞こえた。
まるで、今にも胸から飛び出してしまいそうなほどだ。
見上げると、尊さんの真剣な眼差しと
しかしどこか少し戸惑ったような表情がそこにあって、俺はそのギャップに戸惑いを覚えた。
「あ…あの…主任?」
彼の体温と匂いに包まれながら、俺は小さく
か細い声を上げた。
すると尊さんは、俺の耳元に唇を寄せ
ぼそりと呟いた。
「名前で呼べとは言ったがな、会社では気をつけろ」
その低い声が、直接鼓膜を震わせ
全身に電流が走ったかのような感覚に陥った。
「すっ、すみません!つい口が滑ってしまって…」
俺は反射的に謝罪の言葉を口にし、身体を縮こまらせた。
この状況で、これ以上彼の機嫌を損ねるようなことはしたくなかった。
「会社では上司と部下で、って言ったろ?」
彼の声には、微かに呆れたような響きが含まれていた。
「はっはい、すみません…俺と付き合ってるなんて知られたら主任のこと困らせますよね」
俺は、自分の立場をわきまえていることをアピールしようと必死に言葉を絞り出した。
尊さんのキャリアに傷をつけることだけは、絶対に避けたい。
そんな俺の様子を見て、尊さんはふっと小さく笑みを浮かべた。
その笑みは、俺の緊張を少しだけ和らげるものだったが
同時に彼の次の言葉への不安を募らせた。
「逆だろ、お前と俺が付き合ってるなんて知られたらどこからお前を狙う奴がいてもおかしくない」
その言葉に、俺は思わず呆気に取られた。
「えっ、俺なんか狙う人いないですよ……!」
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
自分にそんな魅力があるとは、微塵も思っていなかったからだ。
しかし尊さんは納得がいかないというように眉間に皺を寄せると、再び俺の耳元で囁いた。
「……お前、自分の魅力に全く気づいてないんだな」
その低い声は、まるで麻薬のようだった。
耳から流れ込んだ甘い痺れが全身に広がるようで、頭がくらくらした。
彼の言葉の真意を測りかねながらも、その甘い響きに抗うことはできなかった。
次の瞬間
尊さんの長い指が、俺の顎を捕らえた。
ひんやりとした指先が、俺の肌に触れる。
その指先から伝わる彼の体温が、俺の頬を熱くした。
「雪白、さっき俺に話しかける前に躊躇ってるように見えたが…何考えてた」
彼の視線が、俺の心の奥底を見透かすようにまっすぐに俺を射抜く。
「それは……その、なんでも、なくて」
俺はおずおずと口を開いた。
しかし、言葉は喉の奥で閊えてうまく出てこない。
動揺を隠そうとすればするほど、それが彼に筒抜けになっているのが分かった。
しかし主任は俺の動揺を見抜いてきて
さらに問い詰める。
「隠し事か?」
「違っ…その、昨夜のこと思い出しちゃって…」
俺は観念し、正直に打ち明けた。
頬が真っ赤に染まっているのを自覚しながら、なんとか言葉を絞り出した。
「昨夜?」
尊さんの声に、微かな好奇心が混じっているように聞こえた。
「……キ、キスのこと考えてました……」
俺は、ほとんど蚊の鳴くような声でそう告げた。
顔から火が出そうなほど恥ずかしかったが、もう後には引けない。
尊さんは一瞬驚いたように目を見開き
俺の顎を掴んでいた手を離すと、そのままその手で俺の頰を包み込んだ。
彼の大きな手のひらが、俺の熱を持った頬を優しく包み込む。
「わ、わざとじゃないんです……!ちゃんと、次からは言わないように気をつけるので…っ」
そう言いかけて
彼の親指が俺の唇を優しくなぞる。
まるで焦らすようなその動きに、背筋がぞくりと震えた。
その指先から伝わる彼の温もりが、俺の身体中に甘い痺れを広げていく。
「その…たけるさん…?」
「わざとじゃないってんなら余計、躾が必要だな」
そのまま上を向かされると、彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
彼の視線が、俺の瞳を捉え
吸い込まれるような感覚に陥る。
「た、たけるさ───っん」
あ、また名前で呼んでしまった。
会社なのに
そんなことを考えている間に、尊さんの唇が俺のそれに重なった。
それは、まるで昨夜の夢の続きを見ているかのような、優しいキスだった。
啄むように何度も角度を変えながら唇を食まれると、甘い快感が全身を駆け巡った。
彼の唇の柔らかさ
そして微かな甘みが、俺の意識を朦朧とさせる。
思わず吐息が漏れる。
すると、それを待っていたかのように尊さんの熱い舌がぬるりと侵入してくる。
歯列をなぞられ、上顎を撫でられると
くすぐったいような、それでいて心地よいような感覚に腰が抜けそうになった。
彼と舌を絡め合う度に、頭が真っ白になっていくようだった。
「んっ……ふ…っ」と、理性とは裏腹に、甘い声が喉から漏れ出る。
息継ぎのために開いた唇の隙間から尊さんの熱い舌が再び侵入してきた。
深く、そして甘く、俺の口腔内を支配する。
かと思えば、名残惜しそうに唇と手が離れていく。
その瞬間、急に現実へと引き戻されたような感覚に陥り、少しだけ寂しさが募った。
「…続きは夜な、それまで仕事に集中することだ」
尊さんは、いつもと変わらない淡々とした口調でそう言った。
しかしその顔はどこか満足そうだった。
その表情は、俺の心をさらに揺さぶる。
「お、鬼すぎます…やっぱり、鬼上司…っ」
俺は、半ば本気で、半ば冗談めかしてそう呟いた。
「ははっ、何とでも言え」
尊さんはいつものように飄々とした態度で笑うと、俺の頭をぽんと撫でた。
その指先の温もりが心地よくて、思わず目を細める。
夜までこの熱を引きずって仕事をしろなんて、無茶もいいところだ。
しかしそれでも、この熱が消えない限りはきっと仕事に集中できないだろう。
俺は覚悟を決めた。この熱を抱えたまま
一日を乗り切るしかない。
そして、平常心を装って主任の後について行ってデスクに戻る。
俺の心臓はまだドクドクと音を立てていたが
なんとか平静を装うことに成功した、はずだ。
デスクに戻ると、隣の同期が小さな声で俺を呼んだ。
「雪白」
「……お前、烏羽主任と二人きりとか大丈夫だったのかよ?」
彼の声には、心配と
そして微かな好奇心が混じっていた。
俺は、努めて平静を装い、曖昧に答える。
「うん、まあ……大丈夫」
俺はデスクチェアに腰かけて、目の前のパソコンの画面を睨みつけた。
業務に集中することにした。
まだ頰は熱く火照っていて、心臓の音がうるさく鳴り響いていた。
しかし、それでも頭の中に尊さんの言葉や体温がしっかりと刻み込まれていた。
「雪白」と俺を呼びながら微笑む尊さんの表情を思い出すだけで、胸が熱くなる。
俺はその熱を振り払うように頭を左右に振って、目の前の資料に視線を落とした。
仕事に集中しようと思えばするほど、あのキスの感触を思い出してしまう。
唇の柔らかさ、舌の熱さ、そして彼の匂い
全てが鮮明に蘇り、その度に心臓が跳ね上がり
集中力を欠いてしまうのだった。
何度も深呼吸を繰り返し、なんとか意識を業務に戻そうと試みて
どうにかこうにか集中力を保ち、定時前には今日の分の仕事が終わり
いつもより早く終わったし尊さんに褒めてもらえる、と浮かれていたときだ。
達成感と、夜への期待に胸を膨らませていた
その矢先だった。
突然上から「雪白、終わったならこれも頼むわ」と同僚の鈴木の声がして
ドサリと書類の束を俺のデスクに落とした。
その音は、俺の浮かれた気分を一瞬にして打ち砕いた。
「え……これ全部?」
俺は、思わず絶句した。
その書類の山は、今日の俺の仕事量よりもはるかに多いように見えた。
「そう、今日中によろしく~俺今から合コンだから」
鈴木は、悪びれる様子もなく
ひらひらと手を振って出て行ってしまった。
そんな無茶な、と口に出す前に、彼の背中はもう見えなくなっていた。
俺が一人の時とか、尊さんがいないときに限って
鈴木はこうして仕事を押付けてくるクセがある。
俺は思わず呆然とした。
しかしすぐにハッとなって、慌てて時計を見た。
定時まであと15分だ。
正直、間に合うわけが無いと思うが
尊さんが戻ってくる前に終わらせないと、と思い
我武者羅に手を動かした。
指先が震え、焦りが募る。
◆◇◆◇
数十分後…
半分ほどが終わり、ふう、と息をついていたときだ。
肩で息をしながら、額に滲んだ汗を拭う。
まだ半分も残っていることに、軽い絶望を感じていた。
「雪白、まだ残ってたのか」
不意に名前を呼ばれて、ハッと顔を上げた。
そこには尊さんの姿があった。
いつの間にか戻ってきていたようだ。
俺は慌てて時計を見たが、定時はとっくに過ぎていた。
もう、会社には俺と尊さんしか残っていない。
「…あ、主任、お疲れ様です」
俺は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「その資料、俺が鈴木に任せたやつだろ?」
尊さんは、俺のデスクに山積みになった書類を見て言った。
その声には、微かに非難の色が混じっているように聞こえた。
「え、あ、はい」
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
隠し通せるはずもない。
「鈴木の奴……雪白に押し付けたのか?」
彼の声が、さらに低くなった。
「……まあ、その、はい……合コン行くっていって先に帰ってしまって…」
俺が正直に言うと、彼は呆れたようにため息をついた。
「半分貸せ」
「えっ、でも」
俺は思わず断ろうとした。
彼の残業時間をこれ以上増やしたくなかった。
「いいから、二人でやった方が早く終わるだろ」
尊さんは半ば強引に俺から資料を奪うと、それを自分のデスクへと運んで行った。
その手際の良さに、俺はただ見ていることしかできなかった。
「すみません、ありがとうございます……」
「気にするな」
尊さんは資料に目を落としたまま、淡々とそう言った。
彼の優しさが、疲弊した心にじんわりと染み渡る。
そして手際よくパラパラと紙をめくっていく。
その集中力と正確さに、改めて感心させられる。
やっぱり主任はすごいな……。
それからしばらくの間は、お互い無言で仕事に打ち込んだ。
カチカチとキーボードを叩く音だけが、静まり返ったオフィスに響く。
尊さんの存在が、俺の集中力を高めてくれるようだった。
一人で抱え込んでいた重圧が、彼の存在によって少しずつ軽くなっていくのを感じた。