テラーノベル
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其れは、全くもって運命的な出会いであった。
いや、はたから見ればこの上なく偶然で、ありふれた、それでいて素晴らしい事故であったと思う。
しかし、僕と彼女の主観からすれば、それは最悪の出会いであり、救いようのない最低な事故だった。
彼女がひた隠しにしてきたはずの秘密を、僕が共有することになったのは、僕自身の不注意によるものだ。あの日、あの時、僕がもっと細心の注意を払って足元を確かめていれば。あるいは、あと数秒だけ教室を出るのが遅ければ。こんなことにはならなかったのだろうし、運命が牙を剥く余地すらなかったのだろう。
だが、考えてみてもらいたい。
日常というレールの上を歩いている時に、一歩一歩の着地に全神経を注ぐ人間がどれだけいるだろうか。階段を下りる際、注意することなんて、せいぜい足を滑らせないように気を付けるくらいであろう。
……まあ、その唯一にして最大の注意を、僕は怠ってしまったわけだが。
話がこじれたが、僕の言いたいことは一つ。
その出会いが、神様の悪戯と呼ぶにはあまりに必然的で、それでいてあまりに無慈悲な偶然であった。ということだけだ。
その日、僕はいつも通り放課後の学校の階段をゆっくりと下っていた。
放課後。とはいうものの、ホームルームが終わってからまだ数分。喧騒の残滓が廊下に漂い、いまだに授業後の、あの独特のけだるい空気が色濃く残る校内であった。
廊下の、一部平たくなっている場所――この時の僕はその場所の名前を知らなかったが、後々そこが『踊り場』という叙情的な名前であることを知った――に設置されている大きな窓から、橙色の太陽が不気味に、それでいて鮮烈に顔を覗かせている。
今思えば、すでにこの時、僕はダメだったのだろう。
窓から覗いていた夕日の、網膜を焼くような赤さに気を取られ、僕は呆気なく足を滑らせた。
重力に裏切られ、視界がぐにゃりと歪む。階段から転がり落ちるなんて、小学生の頃に悪ガキ共と追いかけっこをして以来だ。
武術の心得があるわけでもない僕は、先日柔道の授業で習ったばかりの受け身という技術を脳内で必死に反芻させてみる。だが、身体は鉛のように重く、知識が神経を伝わって筋肉を動かすよりも先に、物理法則が僕を階段の底へと叩きつけた。
視界が回転し、硬いコンクリートの感触が全身を打つ。
「終わった」と、本能がそう告げ、僕は目を閉じた。
「った……」
数秒の沈黙の後、漏れたのは間の抜けた吐息だった。
よく痛いで済んだと思った。よくよく考えてみてほしい。十段近い段差から、何の構えもなく転がり落ちたのだ。骨の一本や二本、あるいは頭を打って意識を失っていてもおかしくないはずだ。
それなのに、全身に走るべき激痛が、どこか遠い場所の出来事のように鈍い。
おかしい。
小学生の頃、ほんの数段から落ちただけで世界が震えるほどの激痛を味わったはずなのに、何故だ。
そう思い、震える腕で立ち上がろうとして――僕は、何かにつまずきかけた。
正確には、僕の身体の下に、何か柔らかいものが横たわっていた。
驚きつつも、視線を自分の足元、そしてその下の影へと落とす。
そこには、一人の女子生徒が地面に濃厚な口づけをさせられている最中であった。
犯人は誰であろうか。そんなの決まっている。紛れもない、この僕である。
どうやら、僕が落下した際の全衝撃と重量は、運悪くそこに居合わせた彼女が全て引き受けてくれたようだった。僕が無傷に近いのは、彼女という肉のクッションがあったから。
残酷だが、今の状況はそれ以外に判断のしようがなかった。
「…大丈夫?」
自分で突き飛ばしておきながら、随分と他人事のような、冷たい物言いだな。と言葉を発した瞬間に後悔した。
彼女は、呻き声を上げながらゆっくりと、亀のような足取りで顔を上げて僕を見た。
今になって考える。僕はこの時、どうしておくのが最善であったのだろうか。
彼女を無視して逃げ去ることか。はたまた、前を見ていないのが悪いと自業自得を言い張って立ち去るべきだったのか。
何にせよ、彼女と顔を合わせてしまったことが、全ての分岐点だったのだ。
「……………は?」
ここで黙り込まなかった当時の自分を、この瞬間だけは褒めてやりたい。
その女子生徒は、山本《やまもと》嘉穂《かほ》という、紛れもない僕の幼馴染だった。
彼女のことは、自分の手の甲の皺の数よりもよく知っている。
僕たちが生まれる前から親同士に縁があったらしく、物心ついた時から彼女は僕の隣にいた。彼女と一緒に居なかった時間を数える方が難しいほど、長い年月を共にしてきた腐れ縁。
彼女の顔立ちは、一般的に言われる可愛いというカテゴリーよりも、ずっと鋭利で、凛としていて、綺麗や格好いいといった言葉が似合うものだ。
モデルすら裸足で逃げ出すほどのルックス。その美貌に魅了され、玉砕覚悟で告白してくる男子が後を絶たない。彼女から「また告られた、面倒くさい」という贅沢な愚痴を何度聞かされたことか。
さて、ここで話をもう一度、無理やりにでも蒸し返そう。
この絶体絶命の、少女漫画なら恋が始まりそうなシチュエーションで、僕が昔ながらの幼馴染に対して口にした言葉は、情けないかな「は?」である。
だが、実際問題、それくらい言ってもおかしくはなかった。
いや、それ以外の言葉を、僕の脳は拒絶していたのだ。
幼馴染――嘉穂のセーラー服は、落下の衝撃と僕に押し潰された摩擦で、大きく上に捲れ上がってしまっていた。
そこから、彼女の白い肌が見えるはずの場所に。
赤い甲殻のような禍々しい何かが、夕日に照らされて生々しく覗いていた。
いや、甲殻と一言で言い切るには、その存在はあまりに饒舌で、あまりに言葉足らずだった。
嘉穂の右側の脇腹。本来なら美しいくびれがあるはずのその場所には、牙を剥き出しにした口が鎮座していた。
一見すると、脇腹が獣に食い千切られ、中身が露出しているかのように見えた。だが違う。その口は、彼女の意思とは無関係に、ひくひくと、まるで呼吸をするように自律して動いている。
その口を中心に、筋繊維が剥き出しになったような赤い肉塊や、歪な甲殻が、まるで寄生植物のように彼女の胴体を侵食し、覆っていた。
異端。異形。
そんな安直な言葉では表現できない、生命としての明確すぎる異常。
夕日が、彼女の脇腹にある口の牙に反射して、ぎらりと光る。
嘉穂は、ハッとしたように自分の乱れた服装に気づき、青ざめた顔で僕を見た。
その瞳に宿っていたのは、痛みへの怒りではない。
自分の根源を暴かれたことへの、底冷えするような絶望だった。
「…………見、た?」
彼女の声は、放課後の廊下に不自然なほど響いた。
さっきまで聞こえていた運動部の掛け声や、遠くの教室の笑い声が、一瞬にして消え去ったような錯覚に陥る。
僕の視界には、もはや夕日に染まったオレンジ色の世界と、その中心で化け物を宿した美少女の姿しかなかった。
僕は返事ができなかった。
ただ、自分の心臓が、階段を落ちた時よりも激しく、壊れた鐘のように鳴り響くのを感じていた。
それが恐怖なのか、あるいは、見てはいけないものを見てしまった背徳感なのかは、自分でもわからなかった。
これが、僕と彼女の、二度目の出会い。
日常が、赤い肉の軋む音と共に、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
#異質
コメント
1件
あっこれめっちゃ好みだわ…!一話から持っていき方が上手すぎる。階段から落ちて、しかもその衝撃を誰かにぶつけてしまうっていう導入、それだけでもう引き込まれるのに、その相手が幼馴染で、しかも”異形”を抱えてるって展開、最高すぎる。夕陽と赤い甲殻のコントラストが脳裏に焼き付いた。嘉穂が「見、た?」って言うシーンの空気感、声に出して読みたくなるほど鮮烈。続きめっちゃ気になる。更新待ってます🔥