テラーノベル
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心臓の音が、耳元で鐘のように鳴り響いていた。
ドクン、ドクンと、自分の肋骨を内側から叩き割らんとするほどに激しい。
目の前にいるのは、僕がよく知る山本嘉穂だ。
サラサラとなびく黒髪も、意志の強さを感じさせる切れ長の瞳も、少しだけ気の強い唇の形も、そのすべてを僕は暗記している。昨日までなら、彼女が少し眉を寄せただけで「あ、機嫌が悪いな」と察することができた。それくらい、僕たちは近い場所にいたはずだった。
けれど今、彼女の捲れたセーラー服の隙間から覗くそれは、僕が築き上げてきた『山本嘉穂』という人間の定義を、根本から粉砕していた。
「……ねえ、新一。聞こえてる?」
嘉穂の声が、鼓膜を震わせる。
低く、どこか湿り気を帯びたその声は、僕が知る彼女のものよりもずっと大人びていて、そして――ひどく、冷たかった。
彼女の右脇腹にある口が、クチャリ、と音を立てる。
それはまるで、僕が発した「は?」という間の抜けた問いかけに対する、異形なりの返答のようだった。牙の間から溢れた透明な粘液が、彼女の白い肌を伝い、スカートのウエスト部分を汚していく。その光景は、吐き気がするほどに淫靡で、そして生理的な嫌悪感を呼び起こした。
「あ……あ、ああ……」
声にならない吐息が漏れる。僕は、這いつくばった姿勢のまま、後ずさろうとした。
だが、腰が抜けたように力が入らない。階段から落ちた衝撃のせいか、あるいは、目の前の現実を脳が拒絶しているせいか。
「逃げないでよ。……今さら、遅いんだから」
嘉穂がゆっくりと立ち上がった。
彼女の動きに合わせて、脇腹の肉塊がうねり、甲殻がカチリと硬質な音を立てて擦れ合う。
彼女は乱れた制服を直そうともせず、ただ僕を見下ろしていた。その瞳には、先ほどの絶望を覆い隠すような、どす黒い静寂が宿っている。
「これ、何……なんだよ、それ……っ!」
ようやく絞り出した言葉は、震えていた。
嘉穂は自嘲気味に口の端を吊り上げると、細い指先で自分の脇腹を――その、醜悪に口を開く異形を、なぜだか愛おしそうに撫でた。
「何に見える? 病気? 呪い? それとも……私が、元からこういう生き物だったとでも思う?」
彼女の指が口の牙に触れる。鋭利な刃物のような牙は、主であるはずの彼女の指先を容易く切り裂いた。赤い血が滴り、異形の口の中へと吸い込まれていく。
その瞬間、踊り場に充満していた夕日の赤が、さらに一段と濃くなった気がした。
「一ヶ月前から、少しずつ始まったの。最初はただの痣だった。それが、次第に熱を持って、硬くなって……一週間前には、意思を持ち始めた。私を内側から食い破ろうとするみたいに」
彼女の語る言葉は淡々としていて、それが余計に恐ろしかった。
僕が何も知らずに、彼女と一緒に登校し、くだらない冗談を言い合い、放課後のチャイムを聞いていたその裏側で。彼女はこのおぞましい変化に独りで耐え、制服の下に飢えた化け物を飼い慣らそうとしていたのだ。
「誰にも、言ってないのか……?」
「言えるわけないじゃない。……病院に行けば解剖されて終わり。親に見せれば、きっと腰を抜かして泣き叫ぶわ。……でも、新一。あんたは、運が悪かったわね」
嘉穂が一歩、僕に歩み寄る。
長い影が僕の身体を覆い尽くす。
彼女はしゃがみ込み、僕の頬に手を添えた。指先に付着した彼女自身の血が、僕の肌に熱を持って付着する。
「見ちゃったんだもの。私の、一番汚くて、一番残酷なところを」
その時、校舎のどこかでバタン、とドアが閉まるような音が響いた。
我に返ったように、嘉穂の顔から表情が消える。
まだ学校には人が残っている。これから下校する生徒、部活動に励む生徒、残業をする教師。もし、誰かがこの踊り場を通りかかったら。この光景を見られたら。
「……来て」
嘉穂は僕の手首を掴んだ。
その握力は、到底女子高校生のものとは思えないほど強く、拒絶を許さない。
僕は引きずられるようにして立ち上がり、彼女に導かれるまま、夕日の反射する廊下を走った。
誰もいない、旧校舎の視聴覚室。
重い防音扉が閉まり、鍵がかけられた瞬間、世界から音が消えた。
カーテンの閉め切られた室内は、埃っぽく、そして彼女の脇腹から漂う、鉄錆のような生臭い匂いで満たされていた。
「……ねえ、新一。あんた、私のこと好きだったんでしょ?」
暗闇の中で、嘉穂が言った。
突拍子もない問いかけに、僕の思考はフリーズする。
確かに、僕は彼女に憧れていた。幼馴染という特権に甘えながら、心のどこかで彼女の美しさに、凛とした強さに、恋焦がれていた。それは僕にとって、聖域のような感情だったはずだ。
「……だった、って。今だって……」
「嘘。今の私を見てもそんなことが言える?」
彼女は暗闇の中で、セーラー服のリボンを解き、ボタンを一つずつ外していった。
カサリ、と服が床に落ちる音がする。
窓の隙間から差し込むわずかな夕日が、彼女の身体を静かに照らし出した。
そこには、もはや隠しようのない地獄が広がっていた。
右脇腹の口だけではない。彼女の背中には、鳥か何かの翼の骨を剥き出しにしたような、歪な甲殻の突起が幾本も突き出していた。皮膚の下を、何かが這い回るように血管が浮き出し、不自然な鼓動を刻んでいる。
「これを見ても、私を『山本嘉穂』だって言えるの? 私はもう、人間じゃないかもしれないのよ」
その言葉の最中に、彼女の声が段々と震え始める。
強気な仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、得体の知れない変化に怯える、ただの十七歳の少女の素顔だった。
「……嘉、穂…」
「……助けて。新一、助けてよ……」
彼女は僕の胸に顔を埋めた。
背中から突き出した冷たい甲殻が僕の腕に当たり、脇腹の口が、僕のシャツ越しにハァハァと熱い吐息を吹きかける。
化け物が、僕を求めている。あるいは、彼女自身が、僕という依り代を求めているのか。
僕は、彼女を突き放すことができなかった。
恐怖よりも先に、胸を締め付けたのは、あまりに無残な彼女への同情と、そして――この異常な秘密を共有しているのが、世界で僕一人だけだという、歪んだ高揚感だった。
僕は震える手で、彼女の背中に手を回した。
ゴツゴツとした甲殻の感触が、手のひらに伝わる。
それは紛れもなく、僕の影ながらに愛した少女の成れの果てであり、これから始まる終わりの予感だった。
「大丈夫だ。……誰にも言わない。絶対に、言わないから」
僕がそう囁いた瞬間、彼女の脇腹の口が、満足げに一度だけ、大きく喉を鳴らした。
其れは、全くもって運命的な出会いであった。
僕が彼女を救うのか。彼女が僕を喰らうのか。
その答えが出るまで、僕たちはこの暗い部屋から、もう二度と戻れないような気がしていた。
#タグ?あぁあいつは…良い奴だったよ
里芋
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コメント
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おお、めっちゃ好きなやつだこれ……! 第2話、一気に引き込まれたわ。幼馴染の少女が異形化していく過程と、それでも彼女を拒絶できない主人公の心情、対比がえぐい。視聴覚室の防音扉が閉まる瞬間の「世界から音が消えた」表現、震えた。お互いに「もう戻れない」予感がガチで刺さる。続き、めっちゃ気になる🔥