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「放せ! 私の――」とシーベラは叫び、しかしその勢いは萎んで言い淀む。
周囲を見渡すと、見覚えのない場所で、見覚えのない者と見覚えのある者の二人組に見下ろされ、見覚えのない体の中にいることに気づく。
見覚えのない場所は小さな天幕だ。どうやら変わらず夜のようだが、寒い。アルダニがこれほど冷え込むことはない。天幕の外では焚き火が焚かれているらしく、何人もの人間の話し声が聞こえている。しかしそれらの口調はあまりにも多様で、どのような集団なのか推測できない。
見覚えのない方は熊だった。頭と、それに背丈も熊のようだが、胴体は人間のように手足が長く直立している。しかし袖から露わになっている手、あるいは前肢は固い毛に覆われている。
もう一方は真っ赤な髪と瞳の憎たらしい笑みを浮かべた少女だ。
そして自分自身の体はお粗末な藁人形のようだった。ほとんど力が入らない上に、ご丁寧に手枷足枷に拘束されている。
シーベラは報復者がその手を血に汚す前に唱えるべき言葉を呟きかけたが、熊の毛むくじゃらの手に口を塞がれる。
「本当に、殺しに来ましたね」と熊が声を震わせる。「少しの躊躇も無かった」
「だから言ったでしょ。凶悪な魔女だって」とベルニージュの方は落ち着いた声色で言った。「アルダニ地方において災厄の代名詞になった女なんだから。隕石を落としたり、月まで飛翔する怪物を作ったり」
「ですが、これはあくまで記憶ですよね? シーベラ自身のシーベラの記憶に過ぎない」と熊は円らな瞳でシーベラを見下ろしながら言った。
「うん。魂の方は祓う者が見つけてきてくれた死霊。その死霊がシーベラの記憶に基づいてシーベラらしく振る舞っているに過ぎない」
熊の祓う者は腕、あるいは前足を組む。
「疑問なんですけど、死霊自身の記憶はどうなっているんですか? 私が連れて来た死霊は人格を残しているものでした。二重の記憶で混乱しそうな気がしますが」
「以前にシーベラが言っていたんだけど、憑依されていた間のことは夢のように見ていたらしいよ。これは魔術の効果だろうね。元の記憶に蓋をする力が含まれている」
「どうします? これじゃあ何も聞き出せませんよ。今も私の肉球を噛み千切ろうとしてます、この人」と言って祓う者はより強くシーベラの口を掴む。
「あれから大体一年が経ったよ、シーベラ。それにここはアルダニから遠く離れた場所なんだ。息子さんがどうなったか知りたくない?」
シーベラはベルニージュを睨みつけつつも、熊の手を味わうのを止める。そうすると分厚い肉球が藁人形の口から離れた。
「何が聞きたい?」
おおよそ状況はつかめた。記憶を奪われ、一年間封じられていたのだ。そして何かを聞き出すためにこうして死霊の魂を使ってまで呼び起こされた。肉体が何者なのかは分からないが。とにかくシーベラは早く息子に会いたかった。シイマと結婚し、宿命から解き放たれたとは聞いたが、心配で居ても立ってもいられない。息子思いの凶悪な魔女は自身の体の心配すら思い浮かんでいない。
「記憶を抜き取る魔術について、知っていることを全部」とベルニージュは端的に言った。
「先にこれだけは教えろ」とシーベラはなお強気だ。「どうやって息子が宿命から解放されたのか」
「それは言った覚えがあるけど? シイマさんと結婚したんだよ」
「だからどうしてそうしたら宿命から解放されるんだ? それくらいのことで月が気に入った男を諦めるはずがないだろう」
「ああ、夜の女神、ジェムティアン神の神殿で結婚したんだよ。月の女神、ハニアン神であろうとその眷属であろうと、いや、だからこそ、他の神の祝福にはおいそれと手出しできない。《熱病》がジェムティアンの神殿に入ることさえできないからね。だからシーベラはジェドさんをあの神殿に匿っていたんでしょう?」
そうでもしなければ息子は月にかどわかされていたことだろう。シーベラは未だ消えない憎しみを滾らせる。
「なるほどな、よく分かった」
ひとまずは安心だ。だがそれも死別を含めてシイマと別れるまでの話だ。神裔として長命を受け継いでいる息子にとっては一時の避難にしかならない。
「さあ、聞かせて」とベルニージュは命じる。
「構わないが、そもそも私の記憶をこうして好き放題にしているじゃないか。忘れちまったのならユカリに聞けばいい」
ベルニージュが僅かに不満げな表情を除かせるがすぐに元に戻る。これが突破口になるやもしれない、とシーベラは考えた。
「話を逸らそうとしてる? 記憶を抜き取る魔術について話したくないことでもある?」
「別に。私を長年欺き続けてきた忌々しい魔術だからな。考えたくもないことではあるが。今だってそうだ。記憶を抜き取られた私の体が心配だ。お前みたいに自分の記憶を求めて彷徨っているのか」
「知りたかったら教えてあげるから、さっさと話してくれる?」
「へえ、知っているのか。ということは、私の体の方にも何かしたって訳だ。何だろうな?」
「埒が明かないですね」と祓う者が口を開く。「息子については対して知りたいことではないのでしょう。ベルニージュさん。何か他に餌になるものはないんですか? 悪霊もそう長くは封じていられないですよ」
「と言ってもね。この人のことあまり知らないし。愛息子のために月に喧嘩を売っていたら、ワタシの母の記憶を植え付けられた、ってことくらいしか」
「解放を条件にはできないのですか?」と熊が問う。
「いや、駄目だよ」とベルニージュはすぐさま否む。「さっきも言ったでしょ? この人がどれくらい凶悪な魔女かって」
「でもそれも全て息子を守るための行為で、今はそんなことをする理由はないのでは?」
「……いや、そうだとしても、何千人、何万人と巻き込んで不幸にするようなことをやって来たんだよ。そう簡単に野放しには出来ないでしょ」
熊が良い働きをしてくれてシーベラはほくそ笑む。今聞かされた言い訳以外にシーベラの記憶を戻せない理由があるのだ。それがユカリに関係しているのかもしれない。
「何もしないさ」とシーベラは言った。「あんたの言う通り、息子が無事なら息子に色目を使う月を潰す理由もない。解放、というか私に記憶を取り戻してやりたいなあ」
ベルニージュはたっぷりと時間を取ってから溜息をつく。
「分かったよ。解放してあげるから、知ってることを教えて」
嘘だ、とシーベラは直感した。裏を返せば、記憶を抜き取る魔術について話すことは逃げ出すための切り札にはならない、ということだ。やはり他の線を探らねばならない。
「知っていることといってもな。私は記憶を植え付けられた側だ。私もこの魔術で記憶を植え付けられた瞬間に知ったんだ」
「だから、その時のことを知りたいんだよ。そもそも誰に植え付けられたの?」
「それも覚えてないのか?」とシーベラは首を傾げる。
「一々聞き返さないで」ベルニージュは苛立ちを隠さない。
「私に記憶を植え付けたのはお前だよ。お前自身が自分の母の記憶を抜き取って私に植え付けたんだ。あの状況的に意図しない事故のようだったけどね」
思いがけないことだったらしく、ベルニージュは暫く沈黙していた。
「状況って? どういう状況?」
「うろ覚えだ。もう随分前のことだからな。百年は経ったか」
祓う者が僅かに動揺しているのが見て取れた。ベルニージュをただの人間だと思っていたのだろう。
「見たままのことを話せばいいから」とベルニージュに促される。
「お前は自分自身の記憶をいくつか何者かに渡そうとしているようだった。荒野で、何人かいたが、誰が誰だかは知らん。私はたまたま居合わせただけだからな。おそらく何か失敗し、お前のお前自身の記憶も抜き取ってしまったんだろう。全員取り乱しているように見えた。で、私まで巻き込まれたって訳だ」
ベルニージュが再び物思いに沈む。
「良いんですけど、レモニカさんの新魔術の役には立ちそうにないですね」と祓う者がベルニージュに尋ねる。
「そんなことないよ。記憶の魔術は下手に運用すれば大惨事になるってことを知れたわけだし」
そんなの当たり前だろう、と言わずに「魔法使いが他人のために魔術開発を手伝っているのか?」とシーベラは言った。「大体、何で本人、レモニカとやらがいないんだ。自分の使う魔術だろう」
「確かに」と祓う者が相槌を打つ。
ベルニージュが口を開く前にシーベラは先手を打つ。「言い当ててやろうか。私の記憶を持っていること自体知られたくないんじゃないか? もちろんレモニカではなく、ユカリに。何か後ろめたいことがあるんだろう?」
ほぼ当てずっぽうだが、思わぬ成果を得た。ベルニージュは無表情を保とうとしているようだったが、シーベラに言わせれば雄弁だった。
「そうなんですか? ベルニージュさん。このことをユカリさんが知ると何か問題が?」と祓う者がベルニージュに反感を向ける。
「魔女に乗せられないでよ」とベルニージュが釘を刺す。「別に隠し事なんてないから。このことだって別に知られても構わないことだよ」
シーベラは更に揺さぶりをかける。
「あるいは私の記憶を解放することで何かがあるのか? 私が記憶を取り戻す以外に何か」
シーベラは喋りながら思考を巡らせる。私が記憶を取り戻すことを恐れている? ならば記憶を奪うだけでは足りないはずだ。自分自身のことを思い出せなくとも息子や月のことを覚えていれば為すべきことに至る。記憶喪失の私は今何をしている? 少なくともベルニージュは問題ないと考えている。魔女シーベラは別人のように大人しくしている、ということだ。
「……そうか。分かったぞ。私の体に誰かの、ユカリの――」と言いかけたその時、シーベラは藁人形の体から解放された。記憶の蝶としてではなく、悪霊として、だ。
シーベラの目の前で熊男が膝をついて倒れ、ベルニージュは一枚の札を持っていた。ユカリに対する裏切りを祓う者に知られる前に実力行使に出たという訳だ。シーベラはその札にもどうしようもなく興味は惹かれたが、言いたいことを言わせてもらう。
「ユカリの記憶を私の体に入れやがったな! どういうつもりか知らないが、私の体は返してもらう!」
シーベラの記憶を宿した悪霊は夜闇に不気味な笑い声を響かせて、東へと去って行った。