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その夜、寝室で、早速俊ちゃんに朗報を報告した。
「よかったな、桃。後はゆっくりマイペースで治していけばいいさ」
「俊ちゃん、負担掛けてごめんね。いつもありがとう」
俊ちゃんが私の頬をやさくし撫でながら囁いた。
「俺だっていつ病気になるか分かんないからさ、その時は桃に世話になると
思うからおあいこだよ」
「うん……俊ちゃん、私……俊ちゃんから大切にしてもらって幸せ」
俊のキスがそっと私の唇に落とされた。
そして夜も更ける頃、こうして私たちはそのあと手を繋いで眠りに落ちた。
翌朝、早くに目覚めた俊が、隣のまだ眠りを貪り続けている桃の寝顔を
切なげに眺める姿には、そこはかとなく哀愁が漂っていた。
『はぁ~』今のこの幸せが明日にも終わってしまうのか、はたまた、ずーっと
60才になっても70才になっても続いているのか……神のみぞ知る、って
いうことなのだが……。
自分たちの関係が日々深まるにつけ、今の幸せに反して一層苦しくなるのだ。
あまりの苦しさに、桃に自分の罪を白状し、許しを請いたくなる。
その上で、許された上で、幸せになりたいと思うようになるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
初回の診察時の時に『最初にかかった医院でもらっている痛み止めは
まだ残ってますか?』と訊いてくれた医師は、二度目三度目の診察時にも
必ず丁寧に聴き取りをしてくれた。
「痛みはまだありますか?」と三度目に訊かれた日に「ありません」と
私が答えると「じゃあ、念のためレントゲンを撮りましょう」と言い、
レントゲンを撮った。
「良かったですね。治癒されてるのではないでしょうか。
もしまた痛みが出た折には来院してください」
「先生、お世話になりありがとうございます」
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最初に整形外科の門戸を叩いた日から3か月が経過していた。
脚の不調も治り久しぶりの俊との大切な夫婦の時間の後で、桃が
うとうとまどろんでいた時、それは突然訪れた。
今までの記憶が……。
繋がらなかった点と点が繋がった一瞬だった。
『ウソっ』
最初は夢なのかと思ったけれど、自分の抜け落ちていた記憶なのだと知る。
記憶がないと母親に告げた日のこと、その後の両親の行動や俊の言動を
思い返してみれば、腑に落ちたのである。
『俊ちゃんから大切にしてもらって幸せ』と囁いた日の夫の何とも言えない
切なげな表情も、今ならその意味が分かる。
あの時はどうしてそんなふうなのか分からなかった。
自分を頑なに拒絶していた奥さんからそんなふうに感謝されて
さぞかし堪らなかったことだろう。
桃は恐る恐る隣を見た。
ちゃんと俊がいる……俊がいた。
治らないかもしれない病気になった時、やさしく寄り添ってくれた
やさしい夫が。
仕事で疲れているだろうに率先して子守や家事をしてくれた夫。
積極的に私に尽くしてくれたこと覚えてる、覚えてるよー。
勝手に勘違いをして自分を傷つけた女なのにどうしてそこまで
大切にしてくれたの?
俊ちゃん。
もう私はダメだった。
私の中にあった鬼は消えてしまった。
私はこの日、あることを決心した。
このまま、未来永劫私の失くした記憶は戻らないのだ。
俊ちゃんが浮気した頃から私がそのことに気付いて心を閉ざした頃までの
記憶は一生戻らない。
私は俊ちゃんの浮気のことも修羅場のことも、そしてナイフで彼を刺したことも
なんもかんも忘れたことにして俊ちゃんと奈々子と3人で生きてゆくのだ。
自分だけの秘密にして。
絶対夫にも両親にも……誰にも知られてはならない秘密。
記憶の抜け落ちた水野桃としてなら、この先も俊と共に生きていける。
けれど記憶の戻った水野桃であるならば……夫に自分の友人と浮気された妻としてで
あるならば、到底俊とは生きていけない。
そう、プライド……プライドを失くしてなど生きてはいけないから。
固い決意を秘め、それからゆっくりと桃は瞼を閉じた。
――――お――し――ま――い――――
淡井恵子の番外編へと続く……
水野俊の番外編もあります
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91 ◇淡井恵子の番外編1
友達の旦那に手を出し当時刺されたのは友人の夫だったが、もしかすると
刺されたのは自分だったかもしれないというのに、そのあとも余り
反省の見られない恵子だった。
流石に寝取った相手、水野俊が目の前で妻の桃から刺された日には、
自分も危害を加えられるかもとビビったけれど、喉元過ぎればなんとやらで、
平気でいられるその神経は根が腐っているとしか言いようがない。
そして根が腐ってはいるものの、恵子は流石にこれまで友人相手にしてきた
ようなことを職場でするというような馬鹿なことはしなかったので、それから
しばらくの間は、1年半大人しく家と会社の往復のみの、平凡な日々を過ごした。
職場にはくたびれた38才から定年間際の50代が十数人いるが
とても誘惑したくなるような男子社員がいなかったことも、馬鹿な真似をせずに
済んだ一因だったかもしれない。
それからしばらくして、異動の時期がきて恵子のつまらなく過ごしていた
日常が動くことになる。
春先、新井賢一27才と他数名が転勤で恵子の勤める支店へやって来た。
全員独身だったこともあり、久しぶりに女子社員たちは盛り上がり色めきだった。
新井は恵子と同じ財務部への異動で、すぐさま恵子は彼をターゲットに……
ロックオンした。
相手は独身で、いつものように彼氏と幸せそうにしている友達の旦那を
寝取って楽しむのとは訳が違う。
所謂、今までのようなお遊びではなく、人生の伴侶として彼を何としても
手に入れたいと思う恵子だった。
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