花の影が夜に溶けた翌朝、結衣は結局一睡もできなかった。
明るくなった窓の外を見ても、
世界は少しも温かくならない。
なるわけない。
胸の奥だけが、
薄い氷の膜で覆われたように冷たい。
結衣は学校へ行かなかった。
行ける状態ではなかった。
でも、海へ続く道を迷いなく選んだ。
バス停に着いたとき、
朝の空気はひどく静かだった。
鳥の声さえ遠く感じる。
結衣はポケットの中のスマホを握りしめる。
そこには、夜のうちに送られてきた花の最後のメッセージがあった。
『結衣は、自分のせいだなんて思わないで。
うちはただ、終わりが欲しかっただけだか ら。
結衣は優しいままでいて。』
読んだ瞬間、胸の奥でひび割れたものがさらに崩れる。
優しくなんてない。
そんな言葉じゃ、花は引き戻せない。
「…勝手に、終わりにしないで…。」
小さく呟く、涙がまた滲んだ。
泣いている場合じゃない。
早く行かなきゃ間に合わなくなる。
あの海は、花の“逃げ場所”であり“終わりの場所”だ。
きっと。
バスに乗り込むと、窓の外の景色がゆっくり流れていく。
けれどその流れのどこにも、花の姿はない。
ただ空が広くて、冷たくて、どこまでも遠い。
バスが揺れるたびに、
結衣の心は不安で軋んだ。
ずっと抱きしめているハンカチは、温度はもうない。
ずっと冷たくて、まるで花の温度が消えた証みたいだった。
海辺の停留所についた瞬間、潮の匂いが強く押し寄せた。
あの日、花が「息がしやすい」と言った匂い。
でも私は、息が苦しい。
そこから海へ続く道は一本だ。
細くて、風がよく通る。
空気は軽いのに、胸は重い。
歩くほどに、遠くから波の音が聞こえ始める。
規則的で、優しくて、
どこか最後の鐘のように響く。
結衣は歩幅を速めた。
心臓が早く脈打つ。
呼吸が浅くなる。
それでも止まらない。
そして、視界がひらけた瞬間——
海が広がった。
朝の光を受けて、静かに揺れる水面。
その手前の砂浜に 見覚えのあるものが落ちていた。
花のリュックだ。
中身が少しだけはみ出している。
そこには、花の日記が挟まれている。
手が震える 読みたくない
でも、読まなければいけない。
結衣はしゃがみ込み、そっと日記を開いた。
『結衣と出会わなかったら、
うちはもっと早く消えていたかも。
でも結衣と出会ったから、
迷っちゃった。
“もう少しだけ生きてみようかな”って。
それが苦しかった。
結衣のせいじゃないのに』
言葉が胸を貫いた。
視界がにじむ。
でも涙を拭く暇もなく、日記は続いていた。
『うちが消えたあと、
結衣がうちのことを憎んでもいい。
悲しんでもいい。
忘れてもいい。
でも、
私と同じ場所に来ちゃだめだよ。
それだけは、絶対にだめ。
来ないって信じる。』
そこで文章は途切れていた。
最後の一行は、書きかけのまま。
結衣は唇を震わせ、日記を胸に抱きしめた。
花は、結衣の優しさを愛していた。
けれどその優しさが、
自分を縛る鎖にもなると分かっていた。
だから逃げた。
だから終わりにしようとした。
それでも——
結衣の名前を最後に書いてくれていた。
「…花…どこ…?」
海風だけが答えるように吹き抜ける。
波の音が、遠くで淡く砕ける。
結衣は感じていた。
花はもう、この砂浜のどこかへ一度は来た。
けれど、まだ終わっていない。
まだ間に合うかもしれない。
そして、波打ち際へと視線を向けた瞬間——
薄い足跡が、ひとつだけ続いていた。
海へ向かって、まっすぐ伸びている。
結衣の胸が、大きく跳ねた。
走り出した。
足跡を追って。
波の中へ沈んでしまう前に。
光の届かない場所へ行ってしまう前に。
海風が強く吹きつけ、結衣の涙を攫っていく。
それでも止まらなかった。
目の前の海だけが
残酷なほど静かに、綺麗に輝いていた。
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