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砂浜に残る足跡は、
まっすぐ海へ伸びていた。
けれど、波が寄せるたびに少しずつ形を失い、消えていく。
まるで花の存在そのものが、海に溶けて消えようとしているみたいだった。
結衣はその跡を必死で追いながら、声を上げる。
「花……! 返事して……!」
返るのは波が静かに砕ける音だけ。
朝の海は穏やかで、優しかった。
足跡の終わる場所まで走ったとき、結衣は思わず息を呑んだ。
そこには、
濡れた砂の上にひとつだけ落ちていたものがあった。
花のヘアゴムだった。
いつも手首に巻いていた、細い青色のゴム。
それが、ぽつんと置かれている。
結衣は震える指でそれを拾い上げた。
水を吸って冷たく、砂がついてざらついている。
花がつけていた温度は、どこにもない。
「どうして……こんなの置いてくん……。」
声は小さく、波にすぐ呑まれた。
怒りでも泣き声でもない。
ただ、胸の奥に重く沈む音だった。
そのとき、かすかに遠くで人の声がした。
結衣は顔を上げる。
海沿いのテトラポッドの上に、
小さな人影がゆらりと揺れて見えた。
花じゃない
釣り人だった。
ただの釣り人が、結衣のほうを心配そうに見ていた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「……っ、花を……探してるんです……。」
「花? 名前?」
釣り人は少し考え込むように首を傾けたあと、
ふと、指を海の奥へ向けた。
「さっき、朝早くにな……髪の長い子が海に入って行った気がしたんだよ。
止めようとしたんだけど、声が届かなくてな。」
結衣の心臓が一度止まり、
次の瞬間、激しく脈を打ち始めた。
「入って……行った……?」
「すぐ戻ってくるのかと思ったが……。
波が強かったから、心配になったんだ。」
世界が一瞬で遠ざかる。
足元の砂が崩れ落ちるような感覚。
けれど、釣り人は続けた。
「でもな、ひとつだけ言える。
その子、沈んでいく感じじゃなかったんだ。
何かを探すみたいに、ゆっくり歩いてた。
まるで道が見えてるように。」
結衣の胸が、強く締めつけられる。
涙の代わりに、熱い呼吸だけが漏れる。
「……まだ、間に合う……?」
誰に聞いたのか分からない。
海かもしれない。
自分の心かもしれない。
釣り人は優しくうなずいた。
「お嬢ちゃんの声なら、その子に届くかもしれんな。」
届く。
まだ届くかもしれない。
その言葉だけが、結衣の体に命を戻した。
結衣は濡れたヘアゴムを手首に巻き、
波に向かって走り出した。
海水が足元を打つ。
冷たい。
けれど、花が歩いた道が確かにそこにある気がした。
「花ぁ……!
お願い……返事して……!」
声は風に乗って海へ広がる。
波がそれを抱きしめるように返す。
そのときだった。
遠くの水面が、わずかに揺れた。
人影のようなものが、陽の光に淡く染まった。
まるで——
花の背中が、そこに浮かび上がったように。
結衣は息を呑み、
震える声で名前を呼んだ。
「花……!」
しかし次の波が光を砕き、
その姿はすぐにかき消えた。
本当に花だったのか。
ただの幻影だったのか。
結衣には分からない。
けれど、確かに“何か”はそこにいた。
海が静かに告げるように、
波は結衣の足元まで届く。
花はまだ、海の中のどこかにいる。
終わりの先へ踏み出す前の、ぎりぎりの場所に。
結衣は拳を握りしめた。
「花……私が見つけるから。
絶対に……。」
波が冷たく足首を撫でる。
その冷たさが、結衣の胸を締めつけた。