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春の風が吹き始めた。
厳しく冷たく、多くの命を浚っていった冬が終わる。
雑踏がいつもより色めき立って見えた。
──西ブロックに、春が来る。
「そろそろ、イヌカシのところも客引きかもな。あんたの仕事も終わりかもしれないぜ」
「なぜ?まだ夜は寒いだろう」
紫宛がストーブの火加減を調節する。少し暑い。古い木製の椅子に腰かけたネズミが、まるで分かっていないとでも言うように首を振った。
「ここらの連中は無駄な金を遣う暇なんて無いんだ。凍死さえしなければ、どれだけ寒くても野宿くらいするさ」
「そうなのか。じゃあ、僕は恵まれてるんだな」
「No.6の温室とは比べ物にならないけどな」
ネズミの言葉には、相変わらず人をからかって楽しむ響きがある。紫宛は大分慣れてきたのか、少し首を傾けただけだった。
チチッ。
子ネズミが紫宛の肩に飛び乗った。
「ハムレット。また読んでほしいのか」
チチチッ。
頷くように声を出す子ネズミに微笑んで、手近な本を手に取った。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だ。
「『ロミオとジュリエット』か…。懐かしいな」
「有名な話だ。僕でも知ってる」
「そりゃあそうだろう。シェイクスピアの王道だ。何度か演じたことがある」
ネズミの声音が変わる。からかうような声が、気づくと、美しい女性のものとなっている。形の良い唇から深い嘆きの声が漏れた。
「おお、ロミオ!貴方はどうしてロミオなの?」
紫宛が目を見張る。本の陰から、誘われるように二匹のネズミが顔を出した。
「…ってな。おい、なに照れてるんだよ」
「いや…本当に綺麗な声だと思ったんだ。凄いな、ネズミ」
素直に感嘆の言葉を告げる紫宛。ネズミがふいっと顔を逸らした。
「あんたはもう少し言葉を選べ。”オブラート”ってのを覚えるんだな」
「オブラート?誉め言葉にも使わなきゃいけないのか?」
「ほんっとに天然ぼっちゃんだな、あんた!」
あきれた、と呟いて、ネズミが立ち上がる。超繊維布を首に巻き直すと、読みかけの本をベッドに放って扉を目指す。
「仕事?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
紫宛の声を背中で聞いて、なにも返さないまま外に出た。
春の風が吹いている。
今年の冬は、いつもとは違った。独りではない冬は思っていたよりあっという間で、春の訪れに内心驚いていた。
ネズミが、ほんの少し後ろを振り返る。
誰かに見送られるということに一冬の間に慣れてしまったようだ。
駄目だ。居場所があることに慣れてはいけない。いつ崩れ去るかも分からないような日常にすがっていてはいけない。
ネズミは息を吐き出すと、超繊維布を口許まで引き上げて歩き出した。