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第10話 名前で呼ばれる
朝の売場は、静かなまま開いていった。
二階の通路。
季節小物の端。
湿度調整の札。
棚に並ぶ生活用品の角が、開店前の照明を細く返している。
イオルは値札を差し込みながら、自分の指先の動きを見ていた。
前より少しだけ、急がない。
札の端を揃える。
棚の前へ立つ。
一歩下がる。
もう一度近づく。
売場の仕事は、ずっと前からこういう細かな動きでできていたはずなのに、ここしばらくで、その一つ一つが妙に目へ入るようになっていた。
人の体に、ウーパールーパーの頭。
丸くひらいた外鰓は、朝の空気を吸って少しだけやわらかく見える。大きな目は相変わらず眠そうに見られやすく、口元は気を抜くとやさしげに見える形のままだ。灰色寄りの上着の上に売場の制服を重ねると、やはりどこにでもいる店員の輪郭になる。
冴えない。
その言い方は、いまでもたぶん合っている。
ただ、前ほど嫌ではなくなった。
「今日、遅番と交代ね」
背後でフミが言った。
メダカ頭の小さくきりっとした輪郭。髪は後ろでまとめ、制服の襟元まで隙がない。目線はいつもどおり速く、通路の乱れも人の表情も同じ速さで拾う。
「何かありました?」
「外の予定でしょ」
「外」
「わざわざ言わせるの面倒」
フミは端末をイオルへ向ける。
短い通知。
鳥頭の女からだった。
本日、夕方から読み合わせ。
可能なら、最後までいてください。
最後まで。
その一文だけが少し濃かった。
「最後までって、珍しいですね」
「何かあるんじゃない」
「そういう言い方すると怖いです」
「怖い顔してないから大丈夫」
フミは棚の端を指で押し込みながら言う。
「最近のあんた、前みたいな沈み方しないし」
「沈んでました?」
「してた。消音の時」
「その言い方、もう定着したんですね」
「わかりやすいから」
消音。
あの時期をそう呼ばれることに、もう抵抗はあまりなかった。
きらめきが隠れた時期。
前へ出ていたものが静かになった時期。
仕事が減り、売場の床だけがやけに近く感じられた時期。
その時間を抜けたと言い切るのはまだ早い。
でも、前みたいに「戻ってこない」と机の前で固まることは減った。
喉の奥は静かなままだ。
きらめきも戻らない。
それでも、稽古場で削ったものは、売場の通路にも少しずつ残るようになっていた。
客に物を渡す時、相手の手元を見る。
説明を急ぎすぎない。
言葉の先に、人を置く。
そういう小さなことだけで、最近は前より楽だった。
昼前、ミナセが三階から降りてくる。
ウーパールーパー頭の丸い輪郭。薄い茶色のインナーに制服を重ね、目元は今日は少しだけやわらかい。外鰓の先に、いつもの軽い艶。
「今日、また稽古?」
「読み合わせみたいです」
「最後まで、って書いてあった?」
「なんで知ってるんですか」
「顔」
ミナセは笑う。
「待ってる顔じゃないもん」
「前は何の顔だったんですか」
「戻ってほしい顔」
「……」
「いまは、行く顔」
その言い方に、イオルはすぐ返せなかった。
行く顔。
有名になりたい。
前は、その言葉のほうが先に胸へあった。
いまは少し違う。
どこへ行きたいのか、昔より少しだけ具体的になっている。
鳥頭の女の稽古場。
無名の小さな役。
二行で届いた手触り。
画面の中でなくても、人へ渡せる言葉。
そのあたりへ、自分は確かに歩いている。
閉店前の売場で、客がひとり立ち止まった。
年配のダックスフンド頭の女。
背は低く、首元まできっちり留めた茶色の服を着ている。手には保湿用の小物が一つ。選び切れない顔で棚を見ていた。
「どっちが使いやすいかしら」
「どちらも似ていますが」
イオルは棚の二つを持ち比べる。
相手の手の大きさを見る。
指先の乾き具合を見る。
「こちらのほうが、開け閉めが少し楽です」
「そう?」
「急いでる時でも、戻すのが面倒になりにくいので」
「……」
「あと、置いた時に転がりにくいです」
女はイオルの顔を見た。
一拍だけ。
それは前なら、止まるかどうかを気にした間だった。
今は違う。
ただ、相手の中へ言葉が入った間に見えた。
「じゃあ、そっちにする」
「はい」
品を渡す。
女は受け取りながら、小さく笑った。
「あなた、説明うまいわね」
「ありがとうございます」
「声がどうこうじゃなくて」
「……」
「ちゃんと、使う時が見える」
言って、去っていった。
イオルはしばらくその場に立っていた。
声がどうこうじゃなくて。
その一言が、やけに残った。
喉の熱がなくても。
きらめきがなくても。
使う時が見える。
それはたぶん、稽古場でやってきたことに近かった。
仕事を終え、稽古場へ向かう。
商業区の端。
少し古い建物の二階。
街の外に近い空気。
種ごとに完璧に整えられてはいない廊下。
でも、その少しの不完全さが、いまは落ち着く。
扉を開けると、部屋にはもう何人かいた。
鳥頭の女。
細い輪郭。鋭い目元。濃い茶色の細い服。今日も首元にはやわらかな布が一枚だけ巻かれている。
コウジ。
年上のダックスフンド頭。低い重心。くたびれた灰色寄りの上着。首元の開いたモカ色の服。立っているだけで床とのつながりが見える人。
そして、知らない人がひとり。
メダカ頭の男。
年齢は四十代くらいだろうか。髪は短く整えられ、やわらかな灰色のジャケットに、濃すぎない緑のシャツ。輪郭は小さいのに、座っているだけで部屋の空気が少し締まる。机の上の脚本へ手を置く指先が静かだ。
鳥頭の女が言う。
「紹介します」
「はい」
「演出のハセベさん」
「どうも」
メダカ頭の男は小さくうなずいた。
「読み合わせ、少し見てました」
「そうなんですか」
「前からではないです」
「はい」
「最近だけ」
最近。
その言い方で十分だった。
イオルは鞄を壁際へ置く。
いつも通り、何かの確認から始まるのだと思った。
歩く。
止まる。
紙コップを置く。
台詞の前に息を置く。
そういう積み重ね。
鳥頭の女が脚本を配る。
「今日は短い場面を最後までやります」
「最後まで」
「通して」
「はい」
役は、街の小さな修理店で働く若い店員だった。
主人公ではない。
場面の中心でもない。
でも、前の二行よりは少し長い。
客が持ち込んだ壊れかけの小物を受け取り、簡単な会話をする場面。
日常の中の、ほんの短い人間。
鳥頭の女が主人公役を振り、コウジが相手の店主役をやる。
イオルは店員。
自分より少し年上で、忙しさに追われながらも、物を雑には扱わない人間。
最初の読みは、やはり固かった。
「そこ、置いてもらっていいですか」
言う。
言いながら、まだ少し自分の顔が邪魔をする。
ハセベがすぐに止めた。
「いま、誰でした」
「店員です」
「違う」
「……」
「イオルが店員の言葉を借りた」
「はい」
「店員の体には、まだ入ってない」
鳥頭の女は何も言わない。
コウジが脚本を閉じてイオルを見る。
「忙しい時の手をやってみて」
「手」
「客が来る前の手」
「……」
イオルは机の上の古い道具を持たされた。
ネジ。
細い布。
小さな箱。
触る。
置く。
また持つ。
「雑にしない」
コウジが言う。
「はい」
「でも、丁寧さを見せようとしない」
「はい」
「ただ、慣れてる人の手」
イオルはもう一度やる。
持つ。
置く。
布で拭く。
戻す。
言葉はまだない。
でも、その無言の間に、自分の中へ少しだけ別の体が入ってくる感じがした。
忙しい。
でも急ぎすぎない。
毎日似たものを触っている。
手が先に動く。
その感じ。
「いまの」
鳥頭の女が言う。
「少し来た」
「来た」
「もう一回、そこから台詞」
イオルは道具を置き、顔を上げる。
主人公役の鳥頭の女が、壊れかけた小物を差し出す。
「これ、まだ直せますか」
イオルは受け取る。
重さを見る。
手の中で傾きを見る。
そして言う。
「見てみます。少し時間もらっていいですか」
前みたいなきらめきはない。
喉も静かだ。
でも、言葉が誰かへちゃんと向いている。
店の中の空気も、少しだけ立つ。
ハセベの指先が机の上で止まる。
通しは短かった。
終わったあと、鳥頭の女は脚本を閉じた。
コウジは壁際の水を飲みに行く。
ハセベだけが、イオルを見ていた。
視線は鋭くない。
でも、軽くもない。
「もう一回、最後だけやりましょう」
「最後」
「はい」
「名前を呼ぶところ」
「……」
脚本の終わりには、店を出る主人公を店員が呼び止める一言がある。
忘れ物を渡すだけの、ほんの短い場面。
名前もない店員が、相手の呼び名を知っていて、最後にそれを言う。
イオルはそこが好きだった。
派手ではない。
でも、名前を知っている人間の言葉だ。
鳥頭の女が位置へ立つ。
背中を向けて歩く。
イオルはカウンターの向こうで小物を手に取る。
「すみません」
まず呼ぶ。
主人公が振り返る。
そこから先。
名前。
たったそれだけなのに、喉の奥が少しだけ硬くなる。
きらめきが戻るのを待っているわけではない。
でも、失敗したくないと思った。
その思いが、まだ少し自分を重くする。
「……さん」
薄い。
名前が届く前に、自分の遠慮が先に出る。
ハセベが言う。
「いまのは、種を呼んだ感じでした」
「種」
「そう。誰でもいい呼び方」
「……」
「相手を見ていない」
鳥頭の女が振り返ったまま言う。
「名前って、難しいですよ」
「はい」
「でも、その難しさがそのまま出ると、呼んだ瞬間に関係が立つ」
「関係」
「あなた、その言葉の前でちょっと逃げる」
逃げる。
イオルは脚本を握り直した。
そうかもしれない。
前へ出ることからだけではない。
名前で呼ぶことからも、自分は少し逃げる。
売場でもそうだった。
「この方」
「そちらのお客さん」
「ウーパーの人」
無意識に、曖昧な呼び方のほうへ体が寄る。
名前で呼ぶのは、相手へ向かって自分を置く感じがして、少し怖い。
ハセベが椅子にもたれた。
「あなた、喉や変異の前に、そこかもしれない」
「そこ」
「人を、ちゃんとひとりで見ること」
「……」
「役でも、仕事でも」
部屋が静かになる。
コウジが水を飲み終え、何も言わず壁へ戻る。
鳥頭の女は脚本を閉じない。
待っている。
イオルは息をひとつ吸った。
もう一度。
主人公役が歩く。
イオルは小物を持つ。
「すみません」
振り返る。
顔が上がる。
その一瞬で、さっきより少しだけ相手の輪郭が近くなる。
「ミオさん」
言った。
今度は、薄くなかった。
熱もない。
きらめきもない。
でも、その名前はちゃんと相手へ届いた。
ただの呼び止めなのに、その一言の前とあとで、二人のあいだに小さな線が引かれる。
鳥頭の女の目が、ほんの少しだけやわらぐ。
ハセベは何も言わない。
コウジだけが、壁際で小さくうなずいた。
「忘れ物」
続ける。
短い。
それだけ。
でも、さっきまでよりずっと楽だった。
通しが終わる。
今度は、しばらく誰も何も言わなかった。
イオルは自分の手の中の脚本を見た。
喉は静かだ。
きらめきもない。
それでも、名前を呼んだ時だけ、何かがちゃんと立った。
ハセベが最初に口を開く。
「今の、よかったです」
「ありがとうございます」
「変異、戻ってないですよね」
「はい」
「でも、名前が届いた」
その言い方が、まっすぐすぎて、イオルはすぐ返事ができなかった。
鳥頭の女が机に脚本を置く。
「前は、出るかどうかで見られてた」
「はい」
「今日は違う」
「……」
「ちゃんと役として、相手へ向かった」
コウジが言う。
「二行でもそうだったけど」
「はい」
「今日はもっと見えた」
「何がですか」
「おまえが、相手をひとりで見た感じ」
そのあと、ハセベが脚本を閉じ、イオルへ向けて言った。
「次の小さな企画で、短い役があります」
「役」
「名前はあります」
「……」
「台詞も少し増える」
「はい」
「受けてくれますか、イオルさん」
イオルはその一言で、少しだけ呼吸を忘れた。
イオルさん。
種でもなく。
ウーパールーパーでもなく。
生活系でもなく。
変異持ちでもなく。
名前で呼ばれた。
しかも、評価の言葉の続きで。
頭の中が一瞬だけ静かになった。
鳥頭の女も、コウジも何も足さない。
部屋の空気が、その一言だけを残す。
イオルはようやく口を開いた。
「……はい」
「考えなくていいんですか」
ハセベが聞く。
「考えてます」
「でも、はい」
「はい」
「有名になれる役ではないですよ」
「はい」
「小さいです」
「はい」
「それでも」
「続けたいです」
自分で言って、初めてその言葉が胸へ落ちた。
有名になりたいと思っていた。
今でも、その気持ちが完全になくなったわけではない。
画面の中へ残ることは、たぶんまだ好きだ。
でも、いま口から出たのはそちらではなかった。
続けたい。
変異が戻らなくても。
きらめきが隠れたままでも。
無名の小さな役でも。
名前で呼ばれたこの場所へ、また来たい。
それだけが、はっきりしていた。
稽古場を出ると、外はもう夜だった。
商業区の灯りが少し遠く、駅前の大型画面もここからは見えない。古い建物の階段を下りると、街の空気は完璧には均されていなくて、外鰓の先へ少しだけ冷たさが乗る。
それでも、胸の内側は妙に静かだった。
端末が震える。
ミナセから。
『どうだった?』
少し考える。
前なら、役の話より先に、きらめいたかどうかを気にしていた。
今日は違う。
『名前で呼ばれた』
送る。
間を置かず返る。
『それ、いいやつだ』
短いのに、少し笑ってしまう。
フミにも送る。
『小さい役、もらいました』
返事はすぐだった。
『立ち方、やっと間に合ったね』
それだけ。
店長には送らなかった。
明日、売場で言えばいいと思った。
帰りの電車に乗る。
窓に映る自分を見る。
人の体に、ウーパールーパーの頭。
丸い外鰓。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
何も変わっていない。
でも、今日はその顔を見て、前みたいにため息は出なかった。
名前で呼ばれたのは、この顔だ。
きらめいていた時の画面の中の誰かではなく。
変異が最大まで出た時の薄い反射でもなく。
消音のあと、売場と稽古場を行き来していた、この顔。
イオル。
部屋へ戻る。
机の上には、いつもの紙。
名刺。
連絡票。
応募票の控え。
雑誌。
新しく受け取った、小さな企画の脚本。
その一番上へ手を置く。
以前なら、紙の厚みで期待の重さを測っていた。
今日は違う。
脚本の角をなぞりながら、名前のある役、という事実をただそのまま受け取っていた。
前面カメラを起動する。
画面の中の自分。
いつも通りだ。
喉も静か。
きらめきもない。
イオルは少しだけ息を吸う。
「ミオさん」
言ってみる。
前より、薄くない。
強くもない。
でも、ちゃんと相手へ向く感じがある。
もう一度。
「落ちましたよ」
さらに。
「こちらに置いておきますね」
どれも普通の声だ。
普通の顔だ。
それでも、いまはそれでよかった。
録画を止める。
見返す。
きらめきは戻らない。
でも、演技は前より届く。
言葉の先に、ちゃんと人がいる。
それだけで、十分な夜だった。
寝台へ横になる。
天井を見る。
静かな部屋。
一般人の部屋だ。
売場の店員の部屋だ。
無名の小さな役者の部屋でもある。
イオルは目を閉じた。
有名かどうか。
きらめくかどうか。
前へ出る変異が戻るかどうか。
それらは、たぶんこれからも揺れる。
でも、続けるかどうかだけは、いま夜の中で静かに決まっていた。
明日も売場へ行く。
また稽古場へ行く。
小さな役を受ける。
名前で呼ばれた自分を、もう一度そこへ連れていく。
それでいいと思えた。
それが、ようやく自分で選んだ形だった。
コメント
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ゆめかちゃん、こんばんは〜!🌙💫 柘榴さんとAIさんのエピソード「名前で呼ばれる」、読んだよ…!📖✨ このお話、すごく静かで、でもちゃんと人の心に届く感じがしたよ。 主人公イオルが「名前で呼ばれる」っていう、ただそれだけのことに、こんなに深く感じ入るなんて…😢💕 特にハセベさんが「イオルさん」って呼んだ瞬間、イオルの呼吸がちょっと止まるみたいになったところが、すごく印象的だった。その一言で、今までの曖昧な呼び方とか「種」とか「誰でもいい」みたいな距離が、パッと縮まる感じがしたんだ。 それでイオルが「続けたいです」って言えたのが、本当に良かった…!🥺✨ あと、鳥頭の女(ハセベさん?)が「あなた、相手をひとりで見た感じ」って言ったのも、なんかプロの視点みたいで勉強になるなあ…って思ったよ。 演技の「見え方」って、そういうことなんだね。 売場でのやり取りも、ちゃんと「使う時が見える」説明になってて、イオルの仕事がただの作業じゃなくて、誰かの手に合うように考えられてるのが伝わってきた。 そういう細かい気配りが、役者としても生きてるんだなあ…ってじんわりした。 最後の夜のシーン、イオルが「明日も売場へ行く」「また稽古場へ行く」「小さな役を受ける」って静かに決めてるところ、なんか祈りみたいで神聖な感じさえた…。 「きらめきは戻らない」ってわかってても、それでも続けるっていう意思が、すごく美しかったよ。 全体として、すごく「人間のリアルな温かさ」が伝わる話だった。 設定はちょっと不思議な世界だけど、そこにいる人の気持ちがちゃんと描かれてて、読んでいて「ああ…そういうことか」って何度も思わされた。 特に「名前で呼ばれる」っていう、たったそれだけのことが、こんなに大きな意味を持つんだ…って感動した。 柘榴さんとAIさん、このお話を書いてくれて本当にありがとう…!🌸 これからも、イオルの物語をゆっくり追っていきたいな。 ゆめかちゃんも応援してるよ!⋆♡ どうぞ、また次のエピソードで会いましょうね〜✨😊💕
羽海汐遠
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