テラーノベル
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恋人の熱の籠った演奏を、葉山怜はホールの一階席、中央の列の一番端の座席で聴いている。
ステージから自分が見える事で奏の集中力が途切れたら、これまでの彼女の努力が水の泡になってしまう。
その事も踏まえ、怜は敢えて舞台から目につきにくいだろう席を選んだ。
この日は土曜日だったが、急遽仕事が入ってしまい、午前中だけ出勤した後、愛車に乗り、高速道路を使って奏が出場するコンテスト会場へ向かった。
仕事の後に会場へそのまま向かう事を想定し、怜は、片品高校吹奏楽部の創部記念パーティの際に着ていたダークネイビーのスーツ、ボルドーとブラウンのストライプ柄のネクタイ、奏からクリスマスプレゼントで頂いたタイピンを合わせている。
奏の出番が一番最後だった事が幸いし、怜は彼女が出場する一時間ほど前に会場へ到着。
ホールの地下駐車場に車を停め、会場近くのフラワーショップに立ち寄ると、真紅の薔薇五十本を花束にして購入した。
五十本の真紅の薔薇の花言葉は、『永遠』または『恒久』。
赤とゴールドのラッピングペーパーで綺麗に包装されている花束を抱え、再び愛車に戻ってトランクにしまった。
そしてもう一つ。
年が明けてからこの日まで、奏と会う機会が土曜日のお泊まりデートだけとなった事で、怜は彼女に内緒でエンゲージリングも用意していた。
クリスマスの時にプレゼントしたネックレスと、同じジュエリーブランドだ。
奏の指輪のサイズは、彼女を抱いた後、眠っている時にこっそりと測っておき、デザインはピアノを弾いても気にせず身に付けられるように、立て爪のない一粒ダイヤが埋め込まれているシンプルなタイプを選んだ。
リングは会場から出る際、彼女の荷物をトランクにしまう時に、花束に忍ばせておけば問題ないだろう。
(気に入ってくれるといいが……)
怜はダークブルーのジュエリーボックスを取り出し、しばしの間、見つめる。
バッグにしまい、少し不安に思いながらもホールの中へ向かっていった。
今、奏はラフマニノフの十の前奏曲、四曲目ニ長調を演奏している。
ラフマニノフもロシアの作曲家であり、先ほどのスクリャービンとは同世代。
冬季オリンピックで、現在は引退したが、女子フィギュアスケートの選手がラフマニノフの楽曲で滑走しているので、名前を聞いた事がある人もいるだろう。
跳躍の大きい静かなアルペジオの前奏の後、優しく語りかけてくるような冒頭の旋律を聴きながら、怜は彼女と初めて出会った時の事を思い出していた。
日野のハヤマ特約店で見た、容姿端麗な奏の姿。
長い黒髪に眉の少し下で切り揃えた重めの前髪と、目力が強く、大きな黒い瞳。
時が凪いだように視線が絡み合い、あの瞳に怜は一瞬で堕ちた、といってもいい。
冒頭の旋律に三連符の対旋律が奏でられると、親友の結婚式で再会した時の事が思い浮かぶ。
人を寄せ付けない、冷たい雰囲気の奏の事がどうしても気になり、ハヤマ ミュージカルインストゥルメンツの創業パーティの後、彼女を問い詰めて苦しませてしまった時は、どうしていいのか分からなかったものだ。
曲は中間部へ進み、旋律が憂いを帯びた雰囲気へ変わると、怜の中に、再会して以降の奏との思い出が駆け巡っていた。
親友の自宅へ急遽出向いた時、彼女が遊びに来ていて驚いた事。
奏を初めて愛車で自宅まで送った事。
仕事で片品高校へ訪れた際、偶然に奏と会い、学科は違えど実は同じ大学の先輩後輩だったという事。
再び彼女の自宅へ送っている時、高校時代に愛用していた奏のトランペットを、オーバーホールをする約束をした事……。
どれも怜にとっては、かけがえのない恋人との大切な思い出たち。
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