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中間部後半から再現部へ向かう、ドラマティックな展開を聴かせる旋律と和音進行に、怜の胸の奥がギュッと締め付けられる感覚が襲った。
親友の本橋夫妻と奏の四人で湘南ドライブへ行った時、初めて聴いた奏のトランペット演奏。
ブランクがある割には太くて伸びやかな音色を奏でる彼女、凛とした立ち姿でトランペットを奏でる彼女に、怜の目が釘付けになっていた。
奏がフライデーナイト・ファンタジーの演奏をしている途中、怜はテナーサックスで低音部分を即席の二重奏で参戦し、ドライブの後、彼女を自宅へ送った時に告白。
返事は、少し時間が欲しいと言われてしまったが……。
表現豊かな演奏を続ける奏は、冒頭よりも盛り上がりを見せる再現部の旋律を演奏している。
彼女の母校の定演でリペアラーとして来場し、奏と少し話した時に見てしまった、彼女を十年もの間苦しめ続けた元彼の男。
定演後の創部パーティで、かつての恋人に絡まれ、パーティの後も執拗に絡まれていた奏を助けた際、彼女の心の闇を全てを知り、気付けば奏を抱きしめていた。
曲の終盤、再現部の中でも特に盛り上がる高音部分の旋律を演奏している奏も、感情がピークに達しているのだろう。
一瞬顔を上に向け、腕をしなやかに動かし、身体全体を使って演奏している彼女は、涙ぐんでいるかのように怜には見えた。
奏の過去の失恋の事を全部知っても、彼女に対する見方や気持ちは変わらないと、怜は改めて彼女に告白し、恋人同士となって交わした、初めてのキス。
唇をそっと離し、抱きしめた時の事を思い出しているうちに、奏は、最後の和音を丁寧に鍵盤へ乗せて曲を締めくくった。
奏は、一旦深呼吸した後、同じくラフマニノフの十の前奏曲 六曲目変ホ長調を奏で始めた。
甘い。ひたすら甘い前奏曲だと、奏はこの曲を弾く度に思う。
それはまるで、恋人同士が愛を伝え合っているかのよう。
左手の旋律と思わせる伴奏の動きが、男性が女性に向けて蜜のように甘美な言葉を耳元で囁き、右手の旋律は、女性が男性の愛の言葉に照れながらも、幸せに満ちている様子が思い浮かぶ。
怜が奏に本気の気持ちを伝え続けている様子と重なり、弾きながら顔が紅潮しそうになってしまう。
彼は、彼女が赤面してしまう事を平然と言ってのける。
真剣な言葉も、糖度の高い言葉も、怜は奏に惜しげもなく伝えてくる。
甘い言葉の羅列みたいな旋律が徐々に盛り上がっていき、煌びやかなオクターブの最高音の所を演奏していると、怜が周囲も憚らず、隙を突くように奏へ軽くキスをしてくる光景が、旋律の向こう側に映し出されたように感じた。
そんな怜の愛に応えるかのように、奏も演奏しながら柔らかな笑みを浮かばせ、静かな後奏部分へ向かう。
最後のアルペジオを丁寧に紡いだ後、怜の微笑みを思い出しながら音の残響を感じ取り、ゆっくりと鍵盤から手を離した。