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(この人……)
あと一歩踏み出してしまえば簡単に抱けるのに、暁人さんは誠実さを忘れていない。
二億円を貸した立場なら、「体で払って」と言えば私が断れないのを分かっているはずのなのに――。
(どうしてここまで私なんかに誠実でいてくれるんだろう)
そう思った瞬間、脳裏にウィルが蘇った。
初体験を彼に捧げたのは、初めてデートに誘われたあとだった。
高級フレンチと美味しいワインをご馳走され、COOである彼の〝特別〟になれたと思った私は有頂天になっていた。
そのあとホテルに戻り、彼が私的に使っている部屋に連れて行かれ、ソファに座ってキスをしているうちに、流れでセックスしてしまった。
生まれて初めてのセックスは、ベッドではなくソファの上だった。
酔っ払っていた私は、ウィルの事を好きだとは思っていたけれど、自分がどんな感情で彼に抱かれているのか把握していなかったと思う。
酔っていたから彼に『愛している』と言われたか分からないし、向こうの人は明確な言葉を口にしない代わりに、それらしい言葉で自分の想いを主張する事が上手い。
アメリカは裁判ばかりの国だから、謝れば自分に非があると認めた事になるというのは有名な話だ。
それと同じで、証拠になるような言葉は、いつ誰に録音されているか分からないから、絶対に口にしないのだ。
――そうか。だからウィルは私に向かって『アイラブユー』を言わなかったんだ。
フラれて日本に逃げ帰り、半年が経っているのにいまだに胸が痛む。
彼に処女を捧げて痛みを覚えたけれど、愚かな私は『彼が気持ちよさそうならいいや』と思って我慢した。
――本当に相手を大切に思っているなら、性のはけ口にするような抱き方はしないはずなのに。
そして行為が終わったあと、ウィルはスマホにかかってきた電話に出て別室へ行き、私は怠さと痛みを抱えながら、ティッシュで股間を拭った。
今思えば、大切に抱かれたとは言えない体験だった。
そんな事を思いだしたからか、私はポロッと涙を流してしまっていた。
「…………っ!? ご、ごめん! 泣かせるつもりは……っ」
目を見開いた暁人さんは、ショックを受けたと言ってもいい表情で驚き、慌てて私から距離をとる。
「違うんです!」
私はとっさに彼の服の袖を掴んで大きめの声で言う。
そして暁人さんが目を丸くしたまま困惑して眉間に皺を寄せたのを見て、絞り出すように言った。
「……違うんです。あなた、……じゃなくて」
そう言っただけで、彼は私の中に自分ではない男がいる事を察したようだった。
「昔の男?」
暁人さんは項垂れた私の手を握り返し、顔を覗き込んでくる。
頬を撫でられ、宥めるように尋ねられた私は、隠し通す事ができず――、コクンと頷いてしまった。
「……芳乃の心の中にいる男の事を教えてくれるか? 差し支えなければ、今の〝恋人〟として君の過去の男について聞きたいんだ」
穏やかな声で言われ、断る理由のない私はもう一度頷いていた。
ぬるくなったコーヒーを飲んだあと、私はアメリカで〝ゴールデン・ターナー〟のCOOであるウィルに誘われ、処女を捧げて付き合い、プロポーズされたと思っていたのに、遊ばれていた事を話した。
加えて、これだけは言うまいと思っていたのに、〝ゴールデン・ターナー〟を辞めたのは酷い失恋をしてあそこにいられなくなったからだという事も打ち明けた。
話している間、暁人さんは私の手をずっと握っていた。
「……私は職場の上司と恋愛して失敗し、辞めた女です。……それに〝エデンズ・ホテル東京〟を素敵なホテルだと思ったのは事実ですが、お金を稼げるなら立派なホテルが良かったと思っていたんです。〝ゴールデン・ターナー〟に引けを取らない日本のホテルで仕事をやりきる事で、ホテリエとしての私は〝失敗〟していなかったと、自分に言い聞かせたかった……」
私は震える声で言う。
職場の上司に失恋して仕事を辞め、父も亡くなった上に負債を抱えたので御社で雇ってください。
面接でそう言っていたら、誰も雇ってくれなかっただろう。
恥部と思える部分をすべて曝け出した私は、副社長を前に断罪されるのを待つ気持ちで俯き、彼の言葉を待った。
「……分からないな」
暁人さんにそう言われ、私はビクッと肩を跳ねさせる。
――やっぱり……。
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