テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第六話:泥棒猫と、禁じられた味
玉藻が部屋を去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。
彼女が放っていた圧倒的な妖気の重圧が消えた後の部屋は、急激に熱を失い、静まり返っていた。窓の外を支配する乳白色の霧は、まるで僕という存在をこの宿に閉じ込める壁のように厚い。
僕は一人、畳に横たわり、荒い呼吸を繰り返していた。
玉藻から「霊力」と「妖力」の理を教えられたことで、自分の中に起きている異変の意味を、嫌というほど自覚させられていた。額に突き出した二本の角が、ドクンドクンと生き物のように脈打っている。
その根元からは、今にも霊力が溢れ出さんばかりの圧迫感があり、僕は堪らず自分の腕を強く噛み締めた。
(……あつい。玉藻がいないと、この熱はどうにもならないのか)
彼女という強大な「器」がいなければ、僕の中の霊力は出口を失い、内側から肉体を焼き切ってしまう。それは心地よい快楽などではなく、暴力的なまでの飽和状態だった。
その時だった。
静寂に支配されていたはずの部屋に、微かな、しかし異質な「音」が混じった。
――サリ、……サリ。
それは、濡れた布が畳の上を這うような、あるいは獣が獲物を狙って忍び寄るような、極めて小さな足音だった。
僕は重い首を回し、部屋の隅にある障子に目を向けた。
そこには、僕の指一本分ほどの隙間が、いつの間にか開いていた。
そして、その闇の奥から、僕をじっと射抜く「目」があった。
玉藻の気高く鋭い瞳とは違う、もっと丸く、そして爛々と欲望に光る二つの金色の眼光。
「……くん、くん……。ああ、……堪らんにゃ……。廊下まで、こんなに甘い匂いが溢れて……。玉藻さんが必死に隠したくなる気持ちも、今なら分かるにゃあ……」
鈴の鳴るような、しかしどこか卑しさを孕んだ少女の声。
スゥ、と音もなく障子が開かれ、一人の少女が部屋へと滑り込んできた。
そこに立っていたのは、僕がこの宿に来て初めて見る「別のあやかし」だった。
膝丈の短い、動きやすそうな着物を纏った少女。その頭部には、ぴんと立った三角形の獣耳があり、落ち着きなくヒクヒクと動いている。そして何より目を引くのは、彼女のお尻のあたりから生え、左右にせわしなく揺れている二股に分かれたしなやかな尾。
「……お前、……誰だ……っ」
「お凛と申しますにゃ。この宿の仲居……。でも、今はただの『お腹を空かせた猫』だにゃ」
お凛と名乗った猫又は、猫特有の音のないしなやかな足取りで、僕の枕元へと忍び寄ってきた。彼女が近づくにつれ、鼻腔を突いたのは沈香の香りではない。雨上がりの草むらや、乾いた日向の毛並みを思わせる、野性的でどこか懐かしい「獣」の匂いだった。
「玉藻様は、若旦那を独り占めしすぎだにゃ。この宿の他の娘たちは、みんな飢えて死にそうなんだにゃ。……若旦那、お凛を助けると思って、少しだけ……少しだけでいいから、お裾分けして欲しいにゃ」
「やめろ、……っ。玉藻にバレたら、お前だって無事じゃ済まないぞ」
「玉藻様は今、離れの結界基部へ降りてるにゃ。あそこは霊力の流れが激しいから、しばらくは戻ってこられないにゃ。……それに、若旦那も辛そうだにゃ? 角が真っ赤になって、霊力が溢れそうで……。お凛が、優しく『掃除』してあげるにゃ」
お凛は僕の上に跨ると、その小さくも柔らかな手を、僕の胸元に滑り込ませた。その指先には鋭い爪が隠されており、僕の肌を微かに傷つける。
彼女が放つ「妖力」は、玉藻のような完成された美しさはなく、もっと剥き出しの、生存本能に直結した飢えそのものだった。
「……あ、……ぁ……っ!」
お凛が、僕の最も熱を持った角の根元に、熱い舌を這わせた。
その瞬間、全身に凄まじい衝撃が走った。玉藻の優雅で計算された愛撫とは正反対の、ただひたすらに吸い取り、貪り食おうとする獣の情欲。
せき止めていた堤防が決壊したかのように、僕の中に溜まっていた濃密な霊力が、お凛の口内へと激流となって流れ出していく。
「ふにゃあ……っ! おいしい……おいしいにゃあ! なんて濃い霊力……身体の芯が、とろとろに溶けちゃうにゃ……!」
お凛は快楽に瞳を潤ませ、二本の尾を僕の脚に絡みつかせた。
彼女の尾は意思を持つ蛇のように僕の太ももを締め上げ、逃がさない。
玉藻が「清らかな水の源泉」だと言った僕の霊力が、猫又の卑しくも力強い「妖力」と混ざり合い、僕の意識をドロドロの混沌へと突き落としていく。
「だめだ、……お凛、……離れ……っ」
「離さないにゃ! 若旦那のせいなんだにゃ……こんなにいい匂いをさせて……お凛を、誘惑したんだにゃ……!」
お凛は僕の着物を引き裂くように剥ぎ取ると、剥き出しになった僕の肩に、その小さな牙を深く突き立てた。
痛みを感じる暇もなかった。それ以上に、内側から奪い去られる感覚が、狂おしいほどの開放感となって僕を支配したのだ。
正妻である玉藻への裏切り。その罪悪感が、かえってお凛との交わりを甘美な毒に変えていく。
清らかな霊力が、猫又の野性的な妖力によって汚されていく。その背徳感に、僕の身体はかつてないほどの熱を帯びて反応していた。
僕は無意識に、お凛の小さな腰を引き寄せ、彼女の奥深くまで自分を叩き込んでいた。
「ああ、っ! 若旦那……すごい、すごいんだにゃ……っ! お女将さんには絶対に言えないにゃ……あんな凄いこと、されてたんだにゃ……っ!」
お凛は僕の胸に爪を立て、何度も何度も背中を反らせて絶叫した。
玉藻がいなくなった静まり返った部屋で、二人の荒い息遣いと、お凛の獣じみた甘い鳴き声が、宿の暗闇に深く溶け込んでいく。
それは、隠れ宿の「大旦那」としての自覚を持ち始めた僕が、初めて犯した「主への反逆」。
そして、玉藻以外のあやかしたちが、僕という「至宝」を巡って争い始める予兆でもあった。