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#独占欲
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矢嶋の住まいは、会社から十分ほど歩いた場所にあるマンションだった。
彼に支えられながら建物の中に入り、エレベーターに乗って上階へと移動する。
彼の部屋の玄関をまたぐ頃には熱がさらに上がっていたようで、頭の中も目の前もますますぼうっとしてきていた。
「とりあえず、ベッドに寝かせるからな」
言いながら矢嶋は私からコートとブーツを脱がせた。身軽になった私をひょいと抱き上げる。
私は彼にぐったりと体を預けたまま、無言で首を縦に振った。
「今、部屋をあっためるからな。ひとまずこのまま寝ててくれ」
矢嶋は私をベッドに横たえた後、隣の部屋へ姿を消した。ラフな部屋着姿で戻って来たその手に、小さなトレイを持っている。ベッド脇のミニテーブルにそれを置き、私の額に手を当てて顔をしかめた。
「けっこう熱いな。ちょっとごめん」
矢嶋は詫びるように言って、私の服の襟元から体温計を差し入れた。電子音が鳴ったタイミングで体温計を取り出し、眉をひそめる。
「三十八度七分だってさ。薬、飲めるか?」
私はのろのろと体を起こす。
「すみません。ご迷惑を……」
矢嶋はベッド端に腰を下ろし、自分の膝の上にトレイを置く。
「気にするな。もし食べられそうなら、後でおかゆでも作ってやるけど、ひとまずはこれ。ゼリーがあった。薬を飲む前に何か口に入れた方がいいだろ」
彼はゼリーとスプーンを私の前に差し出した。
「桃のゼリー?」
「この前会社でもらったやつなんだけど」
「ふふっ。ありがとうございます」
自分でも不思議なくらい素直に礼の言葉が口から出たのは、きっと熱のせいだろう。
ゼリーを食べ、薬を飲み終えた私の前に、矢嶋が着替えらしきものを置く。
「俺の服で悪いけど、そのまま横になるよりはマシだろ。薬を飲んだから汗もかくだろうし」
「でも……」
ためらっている私の頬に矢嶋は手を伸ばし、にやりと笑う。
「俺が着替えさせてやろうか?」
「じ、自分でやります」
私は慌てて顔を背け、着替えを胸に抱え持った。
矢嶋はくすっと笑い、私の頭を撫でる。
「俺はあっちにいるけど、何かあったらすぐに呼べよ。声が出なけりゃ、携帯でワン切りしていいからな」
矢嶋が部屋から出て行った後、私はのろのろと着替え始めた。
彼の好意に甘える形になってしまった。そのことを申し訳なく思う一方で、ひどく安心感を覚えてもいた。しかも胸の内は温かい。こんな風に思う日がくるなんてと、これまでの彼との関係を思い出して、自分のことに加えてこの状況が可笑しくなる。
着替え終えて、私は彼のベッドに潜り込んだ。自分とは違う匂いに落ち着かなくなり、どきどきと胸が弾み出した。その鼓動を抱え込むようにして体を丸めて目を閉じる。しかし、なかなか眠気はやってこない。暖房が入っているはずだが、寒い。もしかしたらこの悪寒は、これからまだ熱が上がるという前兆かもしれない。早く薬が効いてきますようにと祈りながら、震える体をさらに丸めた。
「具合はどうだ?」
頭からすっぽりとかぶった布団の外から、矢嶋の声が聞こえた。
「夏貴?大丈夫なのか?」
心配する声に答えなければと、私は布団から顔を覗かせる。
「すいません、掛けるものって、もっとありませんか……」
「掛けるもの?寒いのか?」
「はい……」
矢嶋は私の顔をのぞき込み、どうしたものかと考え込むようにうぅんと唸った。しばらく迷うような顔をして顎に手を当てていたが、おもむろに動いて寝室の扉を閉め、私の隣に体を滑り込ませた。
「えっ、ちょっと、何?」
私は驚き、慌てて起き上がろうとした。しかし途端にめまいがして、布団の上に体を倒した。
「急に起き上がるなって」
矢嶋は心配そうに言いながら、私の体に腕を回した。そのまま自分の胸の中に抱き寄せる。
彼の鼓動を耳に感じて、私は動揺する。
「矢嶋さん、あの……」
「本当は裸でくっついていた方が温かいって聞くけど、さすがにそれは嫌だろ?」
矢嶋の声が心地よく耳に響く。
「とにかく目を瞑れ。ぐっすり眠って、早く治せよ」
「こんな状態で、眠れるわけ、ないじゃないですか」
彼の鼓動は落ち着いて聞こえるのに、私自身の鼓動は息苦しいほどに早く打っていた。彼にも伝わっているのではないかと、ふと心配になった。
「眠れないんなら、子守歌でも歌ってやろうか」
自分の動揺やら鼓動の高鳴りをごまかしたくて、私はわざと憎まれ口をたたく。
「バカ……」
「おいおい。バカとはずいぶんな言い草だな」
しかし、私の考えなど矢嶋にはお見通しのようだ。彼はくすっと笑ったきり何も言わず、私の背中を手のひらでゆっくりと撫で始めた。
「風邪かもしれないから、離れた方がいいですよ」
「風邪か、それは困るな。もし具合が悪くなった時は、もちろんお前が看病してくれるんだろ」
「そんなの、嫌に決まってるんですけど」
私が可愛げのない言葉を返しても、矢嶋は私の背を撫でる手を止めなかった。
こうして彼の腕の中の温かさに包まれていたせいか、それとも、ちょうど効いてきたらしい薬のおかげか、悪寒は次第に収まって行き、その代わり、いつの間にか私は深い眠りについていた。