テラーノベル
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朝まで一度も目覚めることなく、ぐっすりと眠っていたらしい。私が目を覚ましたのは、寝返りを打とうとして、体が動かないことに驚いてのことだった。はっと目を開け、ここはどこだと確かめるより先に耳が捉えたのは、すぐ隣で聞こえる規則正しい寝息だった。
結局、矢嶋もあのまま私と一緒に寝てしまったようだ。
起き上がろうとして、再びはっとした。矢嶋の腕が体に回されていて、動けない。彼を起こして腕を解いてもらおうと思ったが、その寝顔はすやすやと気持ち良さそうで、起こすのは忍びない。仕方がないと諦めた私は、穏やかな寝息を立てている彼の顔をじいっと眺めた。ここまでの至近距離で彼を見るのは初めてだ。
イケメンは寝顔もイケメンなのね。羨ましいな。あ、でも、ヒゲが。ふふっ……。
こんなに綺麗な顔にもヒゲは生えるんだな、などと妙に感心しながら声を殺して笑った時、矢嶋の目が急にぱちりと開いた。
私は慌てて顔を伏せた。よく考えてみれば、私自身、今はあまり間近で見られたくない、ひどい顔をしているはずだった。昨夜は結局化粧を落とさないまま寝てしまったし、しかも病み上がりだ。
「お、おはようございます」
「ん……」
矢嶋は何度か瞬きをし、私の体に回していた腕を解いた。それから、おもむろに私の首筋に手を伸ばす。
「っ……」
首をすくめた私に彼はくすりと笑った。手を離し、ほっとしたように息をつく。
「熱、下がったみたいだな。よかった」
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました……」
「全然、迷惑なんてことないさ」
言いながら彼は私の頬に手を伸ばし、そっと撫で始める。
「あ、あの、矢嶋さん……」
どきどきしていることを悟られないように、また、矢嶋と目を合わせないようにしながら、私は慌ただしく彼に告げる。
「私、帰りますね」
「え?もう?後で送るよ」
「いえ、もう帰ります」
「いやいやちょっと待て。今起きたばかりだろ。せめて朝飯を」
「お気遣いなく」
私は矢嶋を振り切るようにして、ベッドから降りようとした。しかし、あっという間につかまって、彼の胸の中に引き戻されてしまった。
彼は私の背に手を回し、耳元に顔を寄せる。
「夏貴、待って」
「あっ……」
彼の囁きにぞくりとし、自分の意思に反しておかしな声が出てしまった。
恥ずかしさに顔を覆う私に、矢嶋はひどく満足そうに言う。
「なぁ、夏貴って、もしかして耳が弱点?それとも、俺の声に弱いの?」
「な、何ですか、その質問は」
「何って、別に。お前の弱点を確かめたいなぁ、と思ったから。だけど病み上がりだし、今日はこれ以上何もしないから安心していいぞ」
「な、何、バカな事言ってるんですか」
「だって、俺、堕としてやるから覚悟しとけって、お前に言っただろ?覚えていないのか?」
矢嶋に問われて、いつかの記憶が蘇った。あの時ひどく動揺したけれど、あんなものは戯言に決まっている。
「だって、あれは冗談ですよね。あの場の流れというか」
「えっ、本気にしてなかったのか」
矢嶋の口から脱力したような深いため息がもれた。
「俺のこれまでの態度が悪かったとは言え、でも、そうか、お前は冗談だと思っていたのか……」
「だって、あり得ないですもの、あんなの」
私は言い切って、再び矢嶋から逃げようとした。しかし、彼の動きの方が断然早く、背後から抱き締められてしまう。
「ちょ、ちょっと、矢嶋さん、離してください」
「さっきも言った通り、これ以上は何もしない。夏貴、好きだ。俺のこと、早く好きになって、俺を受け入れて」
彼は私の名前を甘い声で呼び、甘い言葉を耳に注いだ。
それらはあっという間に、私の心を彼でいっぱいにした。背中に感じる彼の体温、体つき、彼の吐息、すべてが私の鼓動を高鳴らせる。
白状すれば、悔しいことに、矢嶋から告白されて以来、彼を「恋愛対象」として意識するようになっていた。そして、彼に対して胸の高鳴りを覚える理由も、実は分かっている。ずっと昔に抱いた恋心が再燃しまったのか、あるいはそうでなくとも、私は確かに彼を好きになりかけ、彼の気持ちを受け入れかけてもいる。その証拠に、そこに微かな独占欲をにじませて矢嶋が「夏貴」と呼ぶのを、私はすでに許していた。
かと言って、そう簡単に頷いて、彼の手を取りたくはない。これまで彼にはさんざんからかわれ、不愉快な気分にさせられてきたのだ。だから、私はつんとして言い返す。
「そういう日が来るのは、まだまだ先のことだと思いますけどね」
矢嶋はくすっと笑う。
「さすが、夏貴、なかなか手強い。だけど、絶対にそんな日は来ないと言われなかっただけ、良かったと思うことにするよ。とりあえず、軽く何か食べよう。帰るのはそれからだっていいだろう?着替えたらおいで。朝飯、準備しておくから」
ぎしりときしむ音をさせて、矢嶋はベッドから降りた。
「私の分はいりません」
彼は私の頭を撫でる。
「そんなこと言わないで、付き合ってくれよ。夕べは適当に口に入れただけだったから、俺、腹が減ってるんだ。夏貴だって、ゼリーしか食べていないだろ?何か食べた方がいい」
その一因は、発熱した私の世話をしてくれたせいだ。そう思うと、それ以上は、いらない、帰る、と強い態度を取りにくい。
「それじゃあ、お言葉に甘えます……」
「よかった」
矢嶋は嬉しそうだ。
「ところでその前に、シャワーでも浴びるか?」
状況が状況だったにしても、友達でも恋人でもない人の部屋に一泊してしまったのだ。その上さらに甘えることなどできない。私はきっぱりと断る。
「それは帰ってからにします」
「そうか?」
矢嶋は苦笑を浮かべて私を見ていたが、不意に部屋を出て行ったかと思うと、タオルを手にして戻ってきた。
「じゃあ、顔だけでも洗ったら?」
私はためらった。カバンにメイク道具は入っていない。顔を洗ったら、素顔を見せることになってしまう。しかし、すでにもう、化粧が崩れに崩れた顔を見せてしまっている。恥ずかしがるのも今さらかと思い直して、私はありがたくタオルと洗面所を借りることにした。
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