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642
すみれ🪐✿
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照明が落ちたあと、まだ熱の残るステージ裏。
ルイは先に歩いていたタイキの手を、ためらいなく掴んだ。
「……ちょ、ルイ……」
声が裏返る。
それだけでルイの口角が上がる。
距離を詰められて、タイキは一歩下がる。
背中が壁に触れた瞬間、完全に逃げ場がなくなる。
――近い。これ、まずい。
「……近いって……!」
耳まで真っ赤。
視線は合わないのに、逃げ場を探して忙しなく揺れる。
ルイはその様子を、捕まえた獲物を見るような目で見ていた。
「照れてるタイキ、反則なんだけど」
そう言って、顔を近づける。
触れるか触れないかの距離で止めるのが、ルイは異常に上手い。
その絶妙な距離に、タイキの喉が小さく鳴った。
「ステージではあんなに強気なのにさ」
「今は、俺の前だとこうなるんだ」
その囁きが、もうずるい。
「……っ……」
そのまま、表向きには自然な動きで肩に腕を回してくるルイ。
タイキの心臓は、うるさいくらい騒いでいた。
「かわいい」
一言で、トドメ。
「言うな……っ!」
タイキは怒ってるように見えて、耳の赤さが完全に“負け”を認めてる。
側から見れば、無事ステージが終わってそれを噛み締めてる仲間同士。
でも、ルイが耳元で囁く言葉は、全部含みしかない。
「これ以上やったら、タイキ壊れるからな」
「……っ、壊れない……」
小さく反論する声は、震えていた。
「はいはい」
ルイは満足そうに笑って、最後に低い声で言った。
「その照れ、全部俺のだから」
一人残されたタイキは、しばらく動けなかった。
ルイの距離の近さは今に始まったことじゃない。
ただ、プレデビューが決まってからは緊張の糸が切れたように、さらに距離が近くなった。
しかも公の場ではその絡みが減って、人目がないところを狙ってはこの有様だ。
タイキにとって、それを意識しない方が無理だった。
⸻
控室の扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
まだ、誰もいない。
さっきまでメンバーはステージ裏でスタッフと楽しそうに話していた。
この空間に二人きりは、まずい。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
振り向いたときには、距離なんてほとんど残っていなくて。
ルイが、まっすぐこちらへ距離を詰めてきている。
後ずさるしかないタイキ。
化粧台に足が当たって、小物が落ちる。
もう、後がない。
「な、何……?」
一瞬だけ、視界が暗くなって。
すぐ近くにルイの顔。
「……っ!!」
タイキが息を呑むのが分かる。
離れたあと、顔が一気に熱を帯びていく。
「な、にして……」
口元を腕で守るように隠すタイキ。
何が起きたのか、理解が追いつくまで一拍遅れる。
「キス」
淡々と言うのが、余計にやばい。
(キスは、まずいだろ……ルイ……)
そう言いたいのに、言えない。
「ほら、またその顔」
ルイは笑わない。
逃がさない目で、タイキを見つめる。
「嫌なら止めるよ」
「でも、止めてって言う?」
タイキは言えない。
唇に残る感触が、まだ消えてない。
「………」
無理だ。
ルイを突き放せない。
なんで、なんて今のタイキには考える余裕もない。
「だよね」
そう言って、ルイは片手でタイキの背中を引き寄せる。
口元を守っていた腕は、ゆっくり、でも確かな力で引き剥がされた。
「照れてるタイキ、ここまで来たら反則」
タイキは答えられない。
頷くことすらできない。
キスの余韻が消えきらないまま、また体が引き寄せられる。
ルイの動きに迷いはない。
「……待っ……」
言葉は途中で切れる。
お互いの額が触れて、鼻先がかすめた。
「待たない」
ルイの低い声。
いつもの余裕より、ずっと深いところから出てる。
「さっきからさ」
「意識してるくせに逃げようとしてるの、全部分かってる」
タイキは首まで真っ赤で、視線が定まらない。
「だって……こんなの、聞いてない……」
「聞かせてないだけ。これくらいしないと、タイキは気づかないだろ」
ルイはそう言って、タイキの手を取る。
その動きがあまりに自然で、タイキの心臓が追いつかない。
「ステージの上じゃ、あんなに堂々としてるのに」
「俺の前だと、全部正直になってること、そろそろ気づいて」
メンバーが戻ってくる。
そんなことを考えるのに、それ以上のことは考えられない。
――だめだ、このままはまずい。
「……やめ……」
抵抗する声も弱い。
「やめない」
即答するルイ。
そのまま、もう一度キス。
今度は、さっきよりも確かで、逃げ場を塞ぐような。
長くはない。
でも、確信だけが残る。
離れた瞬間、タイキは息を大きく吸って、唇を噛んだ。
「……ひど……」
「褒め言葉?」
ルイは首を傾げている。
「ちがう……っ」
そう言いながら、タイキは離れられない。
唯一できたのは、掴まれた手を自分から離したことだけだった。
ルイはその様子を見て、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
「ね、タイキ」
「照れてるままでもいいよ」
額を寄せて、囁く。
「その全部、俺が受け止めるから」
タイキは思う。
(ルイ相手だと、本当にまずい)
(感情が、言うことをきかなくなる……)
タイキの指先が、一瞬彷徨ってから、無意識にルイの服を掴んだ。
それに気づいた瞬間、ルイの喉が鳴る。
「ほら、自分から離れられなくなってる」
「…………」
何も言えない。
否定しきれない沈黙。
ルイは最後に、額に触れて言った。
近すぎて直視できなくて、タイキは目をぎゅっと閉じる。
「続きは、タイキがちゃんと俺を見るようになってから」
「その時は、逃げ道、用意しないから」
メンバーの声が廊下から聞こえてくる。
タイキはぱっとルイの服を離した。
ルイは急がず、ゆっくりと距離を取る。
何ごともなかったかのように。
残されたタイキは、深く呼吸をして息を整えながら、身なりと前髪を直した。
心の中で思う。
(ちゃんと見るって、なんだよ……)
心臓の音が、うるさい。
(あとから冗談でした、じゃ済まないんだよ……)
そして、ルイのキスの意味も。
自分がどうしてルイの服を掴んだのかも。
考えなきゃいけないのに、考えたら戻れなくなりそうで怖かった。
打ち上げ会場は、さっきまでのステージの熱をそのまま引きずったみたいに騒がしかった。
笑い声、グラスの音、スタッフの「おつかれさまです」があちこちで飛んでいる。
タイキはその空気から少しだけ逃げたくて、席を立った。
鏡の前で水を出す。
冷たい水で手を濡らして、軽く顔を触る。
熱なんてもう下がってるはずなのに、変に落ち着かない。
今日一日、ずっとだった。
ルイの顔を見るたびに、あの控室のことが勝手に頭をよぎる。
唇に残った感覚まで、思い出したくもないのに鮮明で。
ステージの上ではちゃんと切り替えた。
笑ったし、煽ったし、いつも通りできた。
なのに、終わった今になって、心臓だけがまたうるさい。
鏡越しに扉が開くのが見えた。
一瞬で、息が止まる。
入ってきたのは、ルイだった。
「……っ」
タイキの肩がびくっと揺れる。
その反応を見たルイは、少しだけ目を細めた。
「……タイキ」
静かな声。
逃げたい、と思った。
でも、今さら不自然に出ていく方がよっぽど変だ。
「……なに」
できるだけ普通を装って返す。
けど声は、思ったより少し硬かった。
ルイは扉を閉めて、すぐには近づいてこなかった。
それが逆に、余計に落ち着かない。
鏡の前。
並んで立つには近すぎる距離。
けれど、会話をしないには濃すぎる沈黙。
気まずい。
さっきまでの騒がしさが、ここだけ嘘みたいに遠い。
タイキは視線を逸らしたまま、濡れた指先をぎゅっと握った。
「……今日」
自分でも、なんでその話を今するのか分からなかった。
でも、口を開かない方がもっとしんどかった。
「今日のこと、俺、まだ整理できてなくて」
ルイが少しだけ顔を上げる気配がした。
「……何が」
分かってるくせに。
そう思ってしまって、少しだけ苛立つ。
タイキは鏡じゃなく、真正面の洗面台を見たまま言った。
「キスされたの」
空気が、止まる。
その一言だけで、さっきまで曖昧に保っていたものが一気に輪郭を持つ。
ルイは何も言わない。
タイキは唇を噛んだ。
言ってしまったら、止まらなかった。
「なんでされたのか、正直わかんない」
声は小さいのに、やけに響いた。
「俺、ああいうの……慣れてるわけじゃねぇし」
「ずっと頭の中ぐちゃぐちゃで」
ルイは黙ったまま聞いている。
その沈黙が優しいのか、残酷なのか、タイキにはまだ分からない。
「……もし」
喉がつまる。
でも、ここで濁したら、たぶんずっと引きずる。
タイキはようやく、少しだけルイの方を見た。
真正面じゃない。横顔を盗み見るみたいに、少しだけ。
「もし、からかってんなら」
その瞬間、ルイの眉がわずかに動いた。
タイキはそれでも続けた。
「……忘れる」
「俺が勝手に変に受け取っただけってことにして、忘れるから」
言い切ったあと、胸の奥が痛くなった。
忘れられるわけない。
そんなの、自分が一番分かってる。
でも、冗談だったって笑われるよりは、先に自分で切ってしまった方がマシだと思った。
化粧室の白い照明が、妙に冷たい。
ルイはしばらく何も言わなかった。
タイキはその沈黙に耐えきれなくなって、目を逸らした。
「……何それ」
ようやく落ちてきた声は、低かった。
笑ってない。
呆れたようでもなく、むしろ少し傷ついたみたいな声だった。
タイキの指先がぴくっと揺れる。
「なに、って……」
「だって、わかんねぇだろ。急にあんなことされて」
「分かんないなら聞けばいいじゃん」
ルイが一歩、近づく。
その一歩だけで、また空気が変わる。
タイキの背筋が勝手に張る。
「忘れるってなに」
「そんな簡単に片付けられるなら、今こんな顔してないだろ」
「……っ」
図星だった。
ルイはさらに一歩寄る。
逃げ場を塞ぐほどじゃない。
でも、タイキの呼吸が乱れるには十分な距離。
「俺がからかうためにキスしたと思ってんの?」
タイキは答えられない。
そう思いたいわけじゃない。
でも、そうじゃなかった時の方が怖い。
本気だって言われたら、それはそれで、もう戻れない気がするから。
「……思いたくは、ない」
やっと絞り出した声は、弱かった。
ルイの目が少しだけ揺れる。
その揺れが、今日初めて見たものみたいで、タイキは余計に苦しくなった。
「じゃあ、忘れるとか言うなよ」
静かなのに、はっきりした声。
「俺、あれ冗談でやってない」
タイキの喉が鳴る。
ルイはまっすぐにタイキを見ていた。
ステージの上で見せる余裕とも、メンバーに向ける軽さとも違う。
ずっと奥にしまってたものを、今だけ出してるような目だった。
「からかってるなら、あんなとこで二回もしない」
「タイキが困る顔するの分かってて、それでも止まれなかった」
言葉が刺さる。
タイキは思わず視線を落とした。
耳の奥まで熱くなる。
「……二回って、自分で言うなよ」
「そこ引っかかる?」
少しだけ、ルイが笑う。
でもその笑いも、すぐに消えた。
「タイキ」
名前を呼ばれるだけで、胸がうるさい。
「俺は、お前が思ってるよりずっと前から、簡単じゃなかった」
その一言に、タイキの指先が震えた。
簡単じゃなかった。
それはつまり、自分だけが振り回されてたんじゃないってことだ。
嬉しい、なんて思うにはまだ怖い。
でも、胸の奥の冷たかったところが少しだけ溶ける。
「……なんで、今さら」
タイキの声は、もうさっきみたいな強がりじゃなかった。
「今さら、そんな……」
「今さらじゃない」
ルイは即答した。
「今じゃなきゃ無理だった」
タイキはゆっくり顔を上げる。
ルイが近い。
さっきまでより近いのに、今度は逃げたいだけじゃなかった。
「プレデビュー決まって、隣にいる時間が増えて」
「ステージでも、リハでも、終わったあとも、ずっとお前ばっか見てた」
その言葉に、タイキの心臓が跳ねる。
「でもお前、鈍いし」
「言葉だけじゃ、たぶん俺のことそういう意味で見ないだろ」
「……うるさい」
反射で返した声が、思ったより小さい。
全然強くない。
ルイの視線が、少しだけやわらぐ。
「だから、キスした」
あまりにも真っ直ぐで、タイキは息を詰めた。
「分かってほしかったから」
「もう、相棒とか親友とか、そういう顔して隣にいんの限界だった」
その一言が、思った以上に重い。
タイキは目を見開いたまま動けない。
嬉しいとか、困るとか、怖いとか、全部一緒くたになって押し寄せてくる。
「……そんなの、急に言われても」
「うん。急だよ」
ルイはあっさり認めた。
「でも、タイキが忘れるって言う方が無理」
そのまま、ルイの手が伸びる。
触れるかと思って肩が揺れたけど、指先は髪にも頬にも触れず、ただ洗面台の縁を軽く押さえただけだった。
逃げ道はある。
でも、囲われたみたいに感じる。
「忘れんな」
低い声。
タイキの喉が熱くなる。
「……命令すんな」
「命令じゃない」
少しだけ間を置いて、ルイは言った。
「お願いでもないけど」
「どっちだよ」
「本気ってこと」
その答えに、タイキはとうとう目を逸らせなくなった。
ルイの顔が近い。
でも今日みたいに無理やりじゃない。
答えを待ってる顔だった。
それが、ずるい。
「……俺」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか、本当に分からない。
分からないくせに、ひとつだけ確かなことはある。
忘れるなんて、できない。
最初から、そんなの無理だった。
タイキは小さく息を吸って、視線を揺らしたまま言う。
「……忘れるのは、無理」
ルイの目が、ほんの少しだけやわらかくなる。
それを見た瞬間、また心臓が跳ねた。
こんな顔、自分に向けられるのは危ない。
「でも」
タイキは続ける。
「まだ……ちゃんと分かんねぇ」
「うん」
「お前が本気なのも」
「俺がどうしたいのかも」
正直に言うのは、思った以上に怖かった。
けど、もうごまかしたくなかった。
ルイはしばらくタイキを見たあと、静かに頷いた。
「それでいい」
「……いいの」
「いいよ」
ルイは少しだけ口元を緩める。
「分かんないまま俺のこと意識してるって、今タイキが自分で認めたし」
「は?」
一気に熱が戻る。
タイキが睨むと、ルイが少しだけ楽しそうに目を細めた。
「そこ拾うなよ……!」
「だって大事じゃん」
さっきまで重かった空気が、少しだけほどける。
けど、甘さは消えない。
むしろ、余計に濃くなった気がした。
その時、廊下の向こうから誰かの笑い声が聞こえた。
現実が、急に近づいてくる。
タイキがはっとして姿勢を正す。
ルイもそれ以上は迫らなかった。
ただ、すれ違えるくらいの距離まで一度だけ離れて、最後に低く言う。
「タイキ」
「……なに」
「次、忘れるとか言ったら」
ルイは少しだけ屈んで、耳元に近い高さで囁いた。
「今度はちゃんと、忘れられなくする」
「……っ!」
一気に顔が熱くなる。
タイキが言い返す前に、ルイは先に扉へ向かった。
何事もなかったような顔で、ドアノブに手をかける。
「戻ろ」
「打ち上げでそんな顔してたら、さすがにバレる」
「誰のせいだと思ってんだよ……!」
小声で返すと、ルイは振り返らずに笑った。
扉が開く。
外の騒がしい空気が流れ込んでくる。
置いていかれそうになって、でもタイキはすぐには動けなかった。
鏡の中の自分は、分かりやすいくらい赤い。
心臓もうるさいまま。
それでもさっきまでとは違った。
少なくとももう、冗談かもしれない、って不安だけで苦しくはなかった。
その代わり。
本気だと知ってしまったせいで、もっと逃げられなくなった。
タイキは小さく額を押さえる。
「……なにが、忘れられなくする、だよ……」
そう呟いた声は、困ってるくせに。
少しだけ、嬉しそうだった。
ホテルの部屋に戻って、扉が閉まった瞬間だった。
やっと一人になれた、と思ったのに。
静けさが戻った途端、押し込めていたものまで一気に浮かび上がってくる。
「……はぁ……」
深く息を吐いて、タイキはそのままドアに背中を預けた。
打ち上げの空気も、さっきの化粧室の会話も、まだ身体のどこかに残ってる。
靴を脱ぐ。
ジャケットを脱いで、ベッドの端に放る。
それだけの動作なのに、妙に落ち着かない。
部屋の中は静かだった。
さっきまで耳にまとわりついていた歓声も、音響も、スタッフの声も、もうない。
なのに。
静かになったはずの今の方が、ずっと心臓がうるさい。
タイキはゆっくりベッドに腰を下ろした。
前髪をかき上げて、顔を覆う。
思い出したくない。
いや、正確には違う。
思い出したら、ちゃんと認めなきゃいけなくなる。
今日のことを。
ルイの言葉を。
それから――ステージの上で何度も感じた、あの視線を。
「……っ」
目を閉じた瞬間、照明が蘇る。
白く強いライト。
熱のこもった空気。
モニター越しに響く歓声。
何百、何千の視線が向くあの場所で。
その中に、一つだけ。
どうしても気づいてしまう視線があった。
ルイだ。
タイキはゆっくり顔を上げる。
誰もいない部屋の中で、無意識にまた息を止めていた。
今日のステージ。
何曲目だったか、もう曖昧だ。
立ち位置が少し近づいた瞬間があった。
フォーメーションの一部。
ほんの一拍。
振りとしては何でもない。
いつも通り、そこで目線を流して、次の位置に移るだけのはずだった。
なのに、あの瞬間だけ。
ルイの目が、外さなかった。
客席を見るふりをしながら、ちゃんと分かっていた。
こっちを見てる、って。
それも、いつもの“相棒を見る目”じゃない。
タイキは唇を噛む。
ああいう視線には慣れてる。
ステージの上では、メンバー同士で目を合わせることなんて普通にある。
煽り合うこともあるし、空気を繋ぐために目線を使うこともある。
でも、今日のルイは違った。
一瞬だけなのに、長かった。
音の隙間で、呼吸が止まるくらい。
その目で見られた瞬間、タイキは反射で次の動きに入った。
身体はちゃんと踊ってた。
表情も崩してない。
プロとして、そこは外してない。
だけど内側では、完全にやられてた。
(……なんだよ、あの目)
あんな目で見られたら、気づくに決まってる。
気づかないふりなんて、無理だ。
タイキはベッドのシーツをぎゅっと掴んだ。
思い返せば、今日だけじゃなかった。
リハの時から、妙に視線を感じていた。
立ち位置確認の時。
マイクを持ち替えた時。
袖で出番を待ってる時。
見ようと思えば、たぶん何度でも気づけた。
でも自分は、気づかないふりをしてた。
だって、認めたら終わると思ったから。
ルイが自分を見てる。
それも、ただの親友とか相棒とか、そういう温度じゃなく。
欲しいものを見るみたいな目で。
「……まずいだろ、そんなの……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼれる。
部屋の静けさが、その声をそのまま返してくる。
タイキは両手で顔を覆った。
熱い。
打ち上げの酒なんてほとんど入ってないはずなのに、顔がずっと熱い。
忘れるのは無理。
さっき、もう自分で認めた。
でも本当に厄介なのはそこじゃない。
忘れられないのは、キスだけじゃなかった。
あの化粧室で言われた言葉だけでもない。
ステージの上で、自分がちゃんとその視線を探していたこと。
それが一番、まずかった。
「……はぁ……」
また息を吐く。
今度は、誤魔化すみたいに長く。
曲中、ほんの少しだけルイの方を見る。
本来なら必要ないタイミングで、つい目線がそっちに流れる。
そのたびに、ルイは気づいてるみたいに視線を返してきた。
偶然じゃない。
一回ならまだしも。
二回、三回。
今日の自分は明らかに、ルイを目で追っていた。
それが悔しい。
悔しいのに、もっと嫌なのは――
見つけるたびに、少し安心してたことだ。
客席の歓声の中。
強いライトの下。
大勢に見られている場所なのに。
ルイの視線だけ見つけると、呼吸が合うみたいに身体が軽くなる瞬間があった。
タイキははっとして、目を開けた。
「……いや、待って」
小さく呟いて、自分で自分を止めようとする。
それはだめだ。
そこまで認めたら、もう本当に戻れない。
ルイのキスがどうとか。
本気だと言われたとか。
そういう“されたこと”の話じゃなくなる。
自分の方も。
最初から、どこかで同じものを返してたことになるから。
ベッドから立ち上がって、窓の方へ歩く。
カーテンの隙間から見える夜景は、遠くて冷たい。
さっきまであんなに眩しかったステージとはまるで違う。
ガラスに映った自分の顔は、驚くほど素直だった。
疲れていて、赤くて、困っていて。
何より、誤魔化せていない。
タイキはそのまま窓辺に額を寄せた。
思い出す。
最後の曲の終盤。
煽って、走って、息が上がって。
照明が一段強くなったところで、立ち位置が入れ替わる。
そこで一瞬、斜め向こうにいるルイと視線がかち合った。
その時のルイは笑ってた。
いつもの、客席に向ける完璧な笑顔。
なのに、目だけは違った。
見つけた、って顔をしてた。
タイキが思わずそらしたのを、たぶんルイは見ていた。
見ていて、あえて追わなかった。
追わないくせに、ちゃんと残す。
逃がしてるようで、逃がしてない。
それが、ずるい。
「……ほんと、ずるい……」
ルイは知ってるんだろうか。
自分がどんな目で見てるか。
それでタイキがどれだけ揺れるか。
ステージの上ではちゃんとしてるふりをしてても、視線ひとつで全部持っていかれそうになることを。
たぶん、知ってる。
知っててやってる。
それが分かるから、余計にまずい。
タイキは目を閉じる。
化粧室での声が蘇る。
「俺、あれ冗談でやってない」
「忘れんな」
「本気ってこと」
その言葉に、今日のステージの視線が全部つながる。
ああ。
だからだったのか、と今さら分かる。
今日のルイは最初から、隠してなかった。
いや、隠せてなかったのかもしれない。
ステージの上でも。
袖でも。
控室でも。
化粧室でも。
ずっと、タイキのことを見てた。
それを思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
苦しいのに、嫌じゃない。
それがもう、一番だめだ。
タイキはゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
壁に背中を預けて、膝を立てる。
一人になると、いつもは整理できるはずなのに。
今日に限っては、考えれば考えるほど深みに落ちていく。
(……ちゃんと俺を見るようになってから、か)
控室で言われた言葉まで、鮮明に思い出してしまう。
あの時は意味がよく分からなかった。
でも今なら少しだけ分かる。
“見る”って、ただ目を合わせることじゃない。
相棒としてじゃなく。
親友としてでもなく。
ルイを、そういう相手として認めること。
そしてたぶん。
自分が、ルイに向けてるものも認めること。
そこまで思考が辿り着いた瞬間、タイキは片手で目元を覆った。
「……無理だって……」
声がかすれる。
無理だ。
そんなの、一気に分かるわけがない。
でももう、知らないふりもできない。
今日のステージで。
あの視線の熱で。
もう十分すぎるほど、思い知らされてしまった。
ルイは本気だ。
そして自分も、あの視線に気づいて、揺れて、探してしまっていた。
沈黙の中、スマホがベッドの上で小さく震えた。
タイキはびくっと肩を揺らす。
少ししてから立ち上がって、画面を見る。
ルイからだった。
「ちゃんと部屋着いた?」
たったそれだけ。
それだけなのに、今日一日分の熱がまたぶり返す。
タイキは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
シンプルな文面。
いつもなら何でもない確認。
でも今のタイキには、それすらまともに受け止められない。
だって分かってしまったからだ。
こういう何気ない言葉の温度まで、もう全部前とは違う。
「……無理、ほんとに……」
小さく呟いて、ベッドに座り込む。
返信しなきゃ。
それくらい分かってる。
分かってるのに、指が動かない。
頭の中では、ステージの光の中で自分を捉えたルイの目が、何度も何度も蘇っていた。
歓声の中でも見失わなかった視線。
客席に向けた笑顔の奥で、確かに自分を見ていた目。
あんなふうに見られてしまったら。
もう今までみたいに、ただの“相棒”のままでいるのは無理だ。
タイキはスマホを胸元に押し当てて、ゆっくり天井を見上げる。
心臓が、またうるさい。
静かな部屋。
一人きりの夜。
なのに今、いちばん近くにいるのは、たぶんルイの視線だった。
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