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「(そろそろ来るかな…。)」
店内は私だけ。緊張のあまり心拍が最高潮に早い。パソコン画面を眺めていると、ドアが開く音が。
「いらっしゃいませ。」
「こんな時間に悪いね。」
「大丈夫ですよ。お席へどうぞ。」
「客は俺だけか、貸し切りだな。」
「そうですね。こういう静かな空間でカットするのは初めてですか??」
「初めてだな。」
「落ち着かないですか??」
「ちょっとな。」
カバーをつけて、ホットタオルで肌を蒸らす間にシェービングフォームを泡立てる。
「顔剃り初めていきますね。」
何百人とこなしてきたのに、最初の刃入れに異様に緊張する。
「(優しく、大切なものを扱うように、刃を滑らす角度に気をつけて、刃全体に均一な力を…。)」
終わって丁寧に拭き取り、再びホットタオルで顔を包む。
「お疲れさまです。お肌凄く綺麗になりましたよ。」
「ほんとだ、凄い。こんなにツルツルになったの久しぶりだな。」
「ダンディーさに磨きがかってます!!」
「ほんと??」
「はい。」
照れくさそうにはにかむ姿にギャップを感じつつ カットに移り、鏡を見ながら念入りにハサミを入れていく。
「顔にかかった髪、払いますね。」
化粧ブラシで髪の毛を払っていると、うっかり目が合う。
「大丈夫??」
思わず鼓動が跳ねて、動揺して後ずさった拍子に霧吹きを落としてしまった。
「大丈夫です、失礼しました。」
拾って掛けなおし、ワゴンにある手鏡を取って。
「この鏡で見ますか??ホットタオルも持ってきますね。」
「悪いね。」
「いえ、気にされる方たくさん居ますから。」
全ての施術を終え。
「たくさん話せて楽しかったよ。この時間帯も悪くないな。」
「私も楽しかったです。また指名していただけたら、喜んで対応します。」
にこやかに手を振る姿を見送る。
「(今日も素敵だったな…。)」
初めて来店した時のキリッとした笑顔と、今日見せた、緊張がほぐれた時の柔らかい笑顔を思い返す。お客と関係を持つのはご法度なのに好きになってしまいそうで、心がざわめきだす。
ある日開店準備をしていると。
「おはよう。だいぶ冷え込んできたね。」
「菊田様、おはようございます!!ほんとですね、上着着てくれば良かったです。 」
私は冷たくなった手に息をかける。
「次はちゃんと暖かい格好してやりなさいね。この時期の風邪は厄介だ。」
「はい、そうします。 」
「じゃあ頑張って。」
「はい。」
手を振って歩き出すのを、お辞儀して見送った。またある時は、最後のお客を見送ったところでちょうど居合わせて。
「こんばんは。」
「こんばんは!!お仕事お疲れさまです。」
「さっきの人が最後の客か??」
「そうです。」
「お疲れさま。」
「ありがとうございます。」
「…そうだ、忘れないうちにこれ。」
渡されたのは。
「ハンドクリーム??」
「冬の水仕事は手に堪えるかと思って。」
「ありがとうございます!!嬉しいです!!洗髪中は傷に滲みるし、合間に塗っても施術中に全部取れるのでハンドクリームは消費が早いんです。でもこれは、大事に使いますね。」
そう言うと、安堵の表情で頷いてくれた。
「引き留めて悪かったね、寒いからもう入りな。」
「はい。ではお先に失礼しますね。」
「うん。じゃあまた近いうちに。」
中に入って、さっそくクリームをつける。
「いい匂い…。」
余韻に浸っていると。
「(誰か見てた??)」
入り口を見に行ったけど気配すらなくて。
「気のせいか…。」
閉店準備に取りかかる。不穏な足音が近づいているこを、この時の私は知るよしもなかった。