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#独占欲
洗顔と着替えを済ませてから、矢嶋が用意してくれた朝食を頂いた。見た目も綺麗だし、美味しい。
「矢嶋さんって、料理ができるんですね。今までそういうイメージがなかったから、驚きました」
「それなりに一人暮らしが長いからな。そこそこできるようになったんだよ。今度夏貴のために作ってやるよ、何が食べたいか考えといて」
「そんな今度はないと思いますけど」
私のために、と言われて嬉しいと思ったくせに、ひねくれた言い方で返してしまい、後悔する。彼との今までの会話がいつもこんな調子だったのだから仕方がない、と心の中で自分を正当化する。
「さて、そろそろ送って行くよ」
手伝うと申し出た私を制して、矢嶋はテーブルの上をざっと片づけた。
「座って待ってて」
私に言い置いて、彼は寝室とは別の部屋に入って行った。しばらくして普段着に着替えて戻ってきたが、その顔には眼鏡があった。前髪は軽く流している。まるで、学生時代に戻ったかのような姿だった。
「飲み会で会うたびに思っていましたけど、そういう格好していると、テレビに映っている時と全然違いますよね」
「プライベートまであれだったら疲れるじゃないか」
「そういうものですか」
私はふふっと笑う。
「俺さ、夏貴のその笑い方ってなんか好きなんだよな」
「な、何を急に言い出すんですか」
しみじみとした口調でいきなり「好き」と言われて、私は動揺した。
「急にじゃないよ。今までもずっとそう思ってたんだ。だけどこれからは、思うだけじゃなく、口に出すことにする。ってことで、正直に『好きだ』って言っただけのことさ。やっぱりさ、今までの俺の良くない態度を帳消しにして、お前に俺の気持ちを分かってもらうには、言葉や態度でひたすら表現していかないとな」
彼は私の隣に腰を下ろして続ける。
「好きなところならもっとあるぜ。からかった時に表情がくるくる変わるところ、あれも好きだな。その顔を見たくて、構ってたところもあったんだよなぁ」
「なっ……」
「そういうむっとした時の顔も好きだ。……つまり、どんな時のどんな表情の夏貴も好きってこと。もちろん、お前の中身も好きだよ」
矢嶋は臆面もなく「好き」という言葉を連発した。
とうとう彼の言葉の攻撃に耐え切れなくなって、私は熱を持った顔を両手で覆う。
「もう、やめてください。罰ゲームなんですか、これ。恥ずかしすぎます……」
「あはは。さて、そろそろ出るか。俺、十時まで局に入らないといけなくてさ」
はっとした。そう言えば、矢嶋は昼のニュース番組に出演している。
「やっぱり私、バスで帰ります」
「いや、送って行く。会社は近いんだ。夏貴を送って、いったん戻ってきてから準備しても十分に間に合う。だからお前は気にしなくていいよ」
「だけどこれ以上は……」
迷惑をかけるわけにはいかない、と言葉を続けようとした時、矢嶋の顔に悪戯めいた笑みが浮かんだ。
「それならさ。申し訳ないって思うんなら、俺のお願いを一つ聞いてくれないか?」
「お願い?」
「そ」
矢嶋はにやりと笑った。何を言い出すつもりなのかと身構える私に顔を近づけて、自分の頬を指差す。
「ここにキスがほしいな」
「え……」
「口にしてほしいって言ってるわけじゃないぜ」
「だ、だけど……」
困惑する私に構わず、矢嶋はますます顔を近づけてきた。
私はごくりと生唾を飲み込み、自分に言い聞かせる。彼の言う通り、口にするわけじゃない。唇の先をほんの少し触れさせるだけだ。そしてこれは、お礼としての意味のキスでしかないのだ。
観念した私は、じりじりとした動きで彼に顔を近づけた。彼の頬の手前で目を閉じて、唇をちょんと触れさせる。これで終わったと思った瞬間、違和感があった。はっと目を開けた時には遅かった。すぐ目の前には矢嶋の顔があり、私の唇と彼の唇が触れ合った後だった。
高鳴る鼓動を抱えながら、私は最大限の速さで矢嶋から体を引いて離れた。
焦る私に反して、彼はひどく満足そうだ。
「次はもう少し長くキスしたいな」
「だ、騙したんですね!」
私は顔を熱くしながら彼に抗議した。
しかし、彼はくすりと笑って私の文句を聞き流す。
「それだけ大声を出せるんだから、体調の方はもう大丈夫だな。風邪というより、疲れからきてたのかもしれないな。さて、そろそろ行くか」
矢嶋に促されて、私は動揺の残った顔で立ち上がった。玄関に向かう彼の後を追いながら、自分の唇に指先でそっと触れる。柔らかな彼の唇の感触を思い出して、胸の奥が疼いた。
自分の気持ちから目を背け続けるのは、そろそろ終わりなのかもしれない。けれど、彼を完全に受け入れるのはまだだ。頷くのはもう少し先だと、私は意地悪な気分で彼の背中を見つめた。
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