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階段を降りた先の廊下で、誰かの足音が近づいてきた。
遥は即座に気配を殺した。
教室に戻るふりも、物音を立てない工夫も、もう何も残っていなかった。
心も身体も、すでに立ち尽くすことすらぎりぎりだった。
「……おまえ、まだいたんだ」
聞き慣れた声。
でも、それは今の遥には毒だった。
日下部が、廊下の先に立っていた。
光の反射の具合で、表情はよく見えない。
けれど、声にはどこか乾いた優しさがにじんでいた。
それが今の遥には、なによりも重く、鋭く響いた。
「べつに……帰るとこ、忘れてただけ」
遥の声は掠れていた。
いつもより低くて、潰れている。
けれど、無理に平静を装っていた。
「……帰んねえのかと思った」
「……なんで、おまえがここにいんの」
視線は合わせない。
目が合ったら壊れると思った。
夢のことが、声のことが、蓮司の言葉が、頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
(汚した。……あいつを、夢の中で、犯した)
その事実が、喉元に棘のように引っかかっている。
「玲央菜がさ、ちょっとキレてた」
日下部は軽く言う。
深追いせず、探していたことも言わない。
ただ、その場にいてくれる。
それが、遥にはどうしようもなく、優しさに思えた。
でも、それがまた──
“もっとも残酷だった”。
(来るな。……おまえは、こんなとこ来んな)
心の中で、そう何度も叫んだ。
「……さっき、蓮司と……何か、あった?」
日下部の声が、ほんの少しだけ変わった。
気づいている。遥の何かが、壊れかけていることに。
遥は、ほんの一瞬だけ笑った。
「おまえ、関係ねえだろ。いちいち、気持ち悪いんだよ」
声が震えていた。
けれど、それでも強く言い返した。
何も守れなくても、せめてこの距離だけは壊したくなかった。
(優しくされるたびに、オレは──おまえを、もっと汚したくなる)
そんなこと、絶対に言えなかった。
「……帰るわ」
足音が、ぎこちなく廊下を叩く。
日下部は、止めない。
ただ並んで、数歩後ろを歩いていた。
帰り道、互いに一言も交わさなかった。
けれど、
遥の背後で響くその足音だけが、確かに“気配”としてそこにあった。
──守られていると思ったら、
また“壊したくなる”くせに。
過去の声が、まだ頭の中で残響のように響いていた。