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第5話「ヒメウのうた」
風間琴葉は、休日のたびに海辺の水族館に通っていた。
水族館の裏手、小さな湾に面した岩場で、最近いつもひとりの青年が泳いでいる。
彼はいつも同じ場所にいる。濡れた黒髪をかきあげ、シャツを羽織りながら黙って空を見上げている。
肌は薄く日焼けし、切れ長の瞳は深い海のような色。濡れた服が体に貼りつき、まるで海そのものから生まれたような静けさがあった。
琴葉は気になって、つい声をかけてしまった。
「いつも、泳いでますよね」
青年は少しだけ首をかしげて、うなずいた。
「海の中、好き?」
「……うん」
彼は、あまり話さない。けれど泳ぐ姿は、言葉より雄弁だった。
「ひとりで、さみしくないの?」
「……ひとりじゃないよ。君がいる」
その返事に、琴葉の胸がきゅっとなった。
気づけば彼は、毎回琴葉の来る時間に合わせて泳いでいた。
ある日、琴葉は彼に尋ねた。
「あなた、鳥でしょ?」
青年は静かにうなずいた。
「ヒメウっていう。泳ぎが得意な鳥。声は、あんまり出ない」
琴葉は微笑んだ。「だから、泳ぎで気持ちを伝えてたんだね」
彼は少し照れたように視線をそらし、ぬれた黒い羽のようなシャツをしぼった。
その手の甲には、小さくて青い羽が1枚、貼りついていた。
「ねえ、明日も泳ぐ?」
「……うん。明日も君が見るなら、もっときれいに泳ぐ」
波の音が、その答えを包んだ。
ヒメウのうたは、声ではなく、水と心で紡がれる。