テラーノベル
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教室に特有の匂いが鼻先を過ると同時に、外気とは似ても似つかない冷たい空気が肌身に降り掛かった。
思わず我が身を庇うようにして抱きかかえる。
「うぅ……、姫さまぁ………」
間近に聴いて思った。 本当に切ない声だ。
いったい何があったのか。 どのような経緯があって、彼女は今この場に現れたのか。
恐怖よりも、はや同情に等しいものが胸間を占めていたように思う。
「ダメですよ?」
そんな私の様子に気付いたか、友人は短く言った。
「引っ張られちゃう」
ふたたび背筋がぞくりとした。
いま、同じ室内に居合わせるのは何者であるか、そのセリフは否が応でもそれを強く意識させるものだった。
「姫さま……、姫さまぁ………」
声の出所はすぐに判った。
目を凝らせば、教室の隅に小さな人影が蹲っている。
さめざめとした泣き声は、その人物によるもので間違いないようだ。
「姫さま……、姫さ………」
唐突に、声がピタリと止まった。
後にはただ静寂が残ったが、人影は未だそこに在る。
勘付かれた。
先までの寒気とは別の冷感が背筋を伝う。
「え……? だれ? 誰ですか……?」
思いがけず、人間らしい反応があった。
すこぶる不安に満ちた声だ。
「そりゃこっちのセリフですよ」と、言うが早いか友人がズカズカとそちらへ歩みを寄せる。
これに置いていかれぬよう従ったところ、ようやく先方の体が明らかとなった。
束帯を着けた小柄な少女だ。
ひどく時代錯誤な装いであるが、これがいたく様になっている。
男装の麗人と表すには、幾分にも幼さが先んずるか。
涙の跡がくっきりと伝うあどけない容貌には、怯えの色がありありと見て取れた。
「その袍、武官ですね?」
「はい……。え? ちょ……、怖……っ? 止まって……!」
側壁に背中を押し付けるようにして、じりじりと後退る少女。
彼女の上衣は、闕腋袍と呼ばれる比較的運動に適したもので、古代日本においては、衛府に属する官司の正装として用いられた装束だ。
現代では、もちろんこれを常用する者など居らず、各地の時代祭り等で、その英姿を拝見する機会が数える程度あるくらいだろうか。
「誰を護ってるんです? その姫さまとやらですか?」
「え? はい。姫さま……。 あ、あのあの! 一度止まって……!」
改めて見ても、その出で立ちは極々自然で、不体裁を感じさせる要因は何一つとして見当たらない。
単なる着こなしとはワケが違う。
彼女自身の存在意義とでも言おうか、己のあり方に裏打ちされた装いは、もはや似合う・似合わないの次元ではなく。
魂の本質を表す象徴のように感じられた。
「あれ……? 待って? え? あなた……、お、おおお、鬼ぃ……っ!?」
「あ……? 言っちゃいましたね? 言っちゃいましたね!?」
私が思惟に耽っている隙に、二名の間には早くも火花が立っていたらしい。
「誰が鬼ですって!? おぉん!!?」
「ひぇ……っ!? あ、悪鬼退散!!」
「悪っ……、鬼ぃ!? この高羽じゃケンカ吹っ掛ける言葉ですよそいつぁ!」
「やぁ!? 助けて姫さま……っ!」
拍子抜けと言うには語弊があるか。 ともかく先方にも人並みの感性があるようで、少なからず光明が湧いた。
きっと、話の通じない相手じゃない。
そう思った矢先、少女が突飛な行動に出た。
なにを思ったか、涙に濡れた容貌に毅然とした感情を宿し、低い姿勢を保ったまま身構えるや、右の手腕を横合いへ差し伸べた。
間を置かず、小さな手掌に燐火のような薄光が収束し、見る見る内に長物の形状を成してゆく。
途端、派手な噪音が教室内に響き渡った。
辺りの机や椅子を蹴り分けた友人が、テーパードパンツの後腰に留めた小刀の鯉口を、乱暴に切るのが見えた。
「得物出したら、さすがに冗談じゃ済まされませんよ?」
「うぅ………!」
行く宛を欠いた蛍火が、まるで初雪のようにチラチラと舞い、床板に微かな焦げ跡を残して消えた。
両者の睨み合いは続く。
少女の掌に集まった不可思議な燐光は、当人の躊躇いがちな内面を映すように、いまだ確固たる形を成していない。
一方で、場馴れた友人は靭やかな姿勢を保ったまま動かない。
まるで満身に備わった強力なバネが、撃発の瞬間を今か今かと待ち侘びているようだった。
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