尊さんは両手を鍵盤の上に置いて静かに息を吐き、目を閉じると、スッと息を吸って目を開き、エチュードを弾き始めた。
(わぁ……)
しょっぱなから印象的な曲で、左手はベースを務め、右手がキラキラとした明るく楽しげな音を奏でていく。
低い音から高い音へ、また低い音、高い音……と繰り返すのを聴いていると、まるで波打ち際に立っているかのようだ。
曲を聴いていると、青い空に青い海、水平線を眺めながら足にさざなみを受け、気持ちのいい潮風を浴びている気持ちになる。
最初はその淀みのない音にうっとりとしていたけれど、皆さんの表情を見てハッとした。
百合さんはとても嬉しそうで、今にも泣きそうな顔をしている。
弥生さんは宝物でも見つけたようなキラキラした目をし、他の耳が肥えた皆さんも純粋に尊さんの演奏に感動していた。
やがて尊さんは最後の一音を弾き終え、皆で惜しみない拍手を送る。
彼は真剣な表情を崩さず、神経を研ぎ澄ませた目のまま『マゼッパ』の最初のアルペジオを弾く。
その瞬間、明るい雰囲気から一転し、私たちは別の世界に連れていかれる。
前奏が終わったあと、低音から徐々に這い上がるような音が続いたあと、華やかでいながらどこか物憂げな雰囲気のメロディーに繋がっていく。
素人の私が聴いても色んな複雑な音が要所に混じっていて、恐らく尊さんの指がとんでもない動きをしているだろう事が分かる。
オクターブと重音が幾つも繰り返され、多分私ならずっと手を全開にしているだけで、手が攣って死んでしまいそうだ。
(……尊さん、手大きいもんな)
いつだったか手を合わせてみたら、私の指先が彼の第二関節をちょっとはみ出るぐらい差があった。
(凄いな……)
本物のピアニストの演奏を聴いている気持ちでポーッとしているうちに、曲は最後に明るく華々しい雰囲気に変わり、バッと手を振り上げて終わった。
「凄い……!」
私は思わず立ち上がり、猛烈な勢いで拍手をする。
他の方々も立ち、場内スタンディングオベーションだ。
百合さんはすっかり柔らかい表情になり、言いようのない感情でいっぱいになっているようだった。
尊さんは立ち上がり、少し照れくさそうにお辞儀をする。
百合さんは彼に惜しみない拍手を送り、言った。
「素晴らしいわ。趣味なのが勿体ないぐらい」
ピアノの蓋を閉じて席に戻った尊さんは、苦笑いした。
「今さらピアノの道には戻れません」
「どうして? とても惜しいわ。その才能が勿体ない」
弥生さんも言うけれど、尊さんは首を横に振り、痛みを伴った笑みを浮かべる。
「……子供の頃に母に教わったピアノは、とても楽しかったです。……そのあと篠宮家に引き取られ、父に『せっかくさゆりの才能を継いだんだから、存分に生かしてくれ』と言われ、……とてもいい待遇でレッスンを受けました」
そう言う割に、彼の表情は明るくない。
「あの頃の俺は、打ち込むものが勉強とピアノぐらいしかありませんでした。……あまり言うべき事ではありませんが、家では継母に毎日のように『死ねばいいのに』と言われていました。その怒りや悲しみを叩きつけるのがピアノで、……次第にピアノは音を愛するものではなく、負の感情のはけ口になってしまいました」
全員、尊さんが篠宮家でどんな目に遭っていたかを知って顔色を失う。
「確かに技術は身につけました。友達と遊ぶ時間も削ってレッスンに打ち込んだ結果、コンクールで受賞できたと思っています。……でも華々しい舞台に立っても、何も得られませんでした。ギスギスした空気にライバルの蹴落とし合い、ステージママの金切り声、たった少しのミスで下位に落ちて絶望する子供……。……そういうものを見ると『なんのためにピアノをやってるんだろう』と思い、さらに苦しむために弾いている気持ちになりました」
そこで尊さんは溜め息をつき、苦笑いする。
「母が教えてくれた音は、生き生きしていてとても楽しい音でした。『いま自分が苦しみながら弾いている音は、母の音とまったくかけ離れている』と思って、コンクールやクラシックから離れる決意をしました。……それ以上続けていたら、ピアノを憎んでしまいそうだったからです」
百合さんはさゆりさんとの関係を思いだしたのか、静かに溜め息をついた。
「ボーッと無趣味に過ごしていた時、クラシックではない音楽と出会いました。大学生の時、飛び込みで入ったジャズバーで楽しそうに演奏しているバンドを見て、それまで死んでいた音楽への情熱にまた火がつきました。……でも『そっちで活躍してやる』という熱意ではなく、楽しむために緩くやりたいという感覚でした」
尊さんは先ほどまで弾いていたグランドピアノを見て、小さく微笑む。
コメント
2件
怜香がしねばいいのに。( ˙-˙ꐦ)
尊さんってホント何でも一流だなぁ🥹